映画「赤い砂漠」ミケランジェロ・アントニオーニ 感想


監督 ミケランジェロ・アントニオーニ
主演 モニカ・ヴィッティ
1964年 イタリア・フランス作品

 灰色の工業地帯を背景に、遠くにぽつんと緑色のコートを着た主人公のジュリアーナと、彼女の小さな息子のバレリオがゆっくり歩いてくるシーンから映画は始まります。うずたかく積もった灰や、打ち捨てられたゴミや、立ち上る煙。その無機質な灰色の景色たちを、彼女はひどく憂鬱な気持ちになって眺めなければなりませんでした。なぜならそれらの風景は、そのまま彼女自身の心象風景であるようだったからです。その彼女は交通事故を起こしたことがあり、幸いに怪我は軽くてすんだものの、事故による精神的なショックのために一ヶ月ほど入院したのでした。そしてその事故以来、彼女には世界の色が失われてしまったのです。自らの死を間近で直視したために、かえって生きている自分というあいまいな存在が強く浮き彫りに感じられたのでした。そしてそのことは彼女がいままで生きるよすがであった世界に手ひどく裏切られたといえます。なぜなら自己というものがあいまいで不確かなものであるならば、その自己にとって、生きているこの世界はやはり不信であいまいにならざるを得ないからです。彼女のなかには、なお自分と周囲に対する疑惑と不安の傷跡が深く、彼女にとってそうしたものたちとの和解なしには完治もあり得ないのです。

「退院するとき 私は誰? と自問した」

 その問いに答えられたとき、彼女にほんとうに色彩が取り戻されるのでしょう。
 ジュリアーナは夫の友人のコラドに、なにを信じているのかとたずねます。彼は人間性をはじめ、どんなことも信じるのだといいます。自分のため、他人のため、とりわけ自分の良心のために、自分は信じるのだと。しかしその答えは彼女を満足させませんでした。なぜなら彼の自らの良心と安堵のため、また人間性を信じるのだというやり方は、盲目的でエゴイズムの信じ方であって、つまりすべてを信じるということは、なにも信じていないということと同じだからです。信じられるものを切望する彼女には、そうした態度の彼は信じるに足りないのでした。
 その後に霧深い港の近くの小屋で、夫と友人たちと集まってお喋りとお酒に興じます。お酒も入ってときにはちょっとした猥談に微笑も見せる彼女ですが、やはりその彼女の不安と憂鬱にあっては一時のデカダンスにすぎず、かえって拭うことのできない空虚の感じを強くさせたのでした。いつのまにか小屋の外は、さらにもうもうと霧が濃くたちこめて、彼女はその霧のなかで助けをもとめる叫びをあげて、霧のなかに自分を見失うのでした。
 最後にジュリアーナは愛と自らの不在と、そこからの救済を誰にともなく痛切に嘆きます。その独白には、やはり交通事故のときに彼女はたしかに死んだことが示唆されています。ただ肉体だけが生き残り、この世界で宙づりになっているのです。彼女が望むのは、たとえば壁のように寄りかかれるものとして、あるいは耐えることのできない周囲のものや人との不快な不和から壁となって庇護してくれるものの愛です。
 彼女は、工場の煙突の煙がなぜ黄色いのかと聞く息子に、黄色い煙には毒があるからだと、そして鳥はそれを知っているから飛ばないのだと説きます。しかしその彼女は、知っていながらもやはりその毒のなかを飛んでいかなければ、もはやこの世界への自らの回復もあり得ないのだということも理解しているのでした。
 全体に暗く、これという物語の展開もなければ音楽もほぼ流れない、そしてなんとなく怖い感じのするこの映画は、ある視点から見ると、人間の実存的な問題を描いているようにも思いました。

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