映画「不滅の女」アラン・ロブ=グリエ 感想


監督 アラン・ロブ=グリエ
主演 フランソワーズ・ブリオン ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ
1963年 フランス・イタリア・トルコ作品

 人が眠るあいだに脳が記憶を整理するときに、人は夢を見るのだというようなことを聞いたことがあります。この映画はまるで、その人の脳による検閲がまだされていない「なま」の発現といったようなものでした。よってそれ自体に何かの意味や寓意を求めようとすることは、すなわち日常的なレベルでの検閲を施すということで、この映画の魅力を大きく損ねてしまうことであると思います。しかしあえて野暮ではありますが、すこし個人的な解釈をしてみることは許されるのではないでしょうか。
 登場人物の話すことに、偽物や嘘や誤解という言葉が何度か出てきます。いずれも相対的なものですが、この映画にあっては時系列も場所も因果的に関係しあわないため、それらは本当も嘘もこえたなにか、としかいえないものであり続けるのです。だからこの映画では誰一人も本当のことを言っていないし、嘘をつくこともしていない。時間は一方向に進んでいくのでもなく、この場所はあそこであり、あそこはこの場所でもあるし、語られたことはけっして語られたことのあるものではなく、語られようとしたことは、すでに語られたことであるのです。主人公の男があくまで当地にとって異邦人であっても、当地の人間たちの男に対する視線が常に旅行者に対するそれであっても、男と男以外の人間や風景や出来事にはなんらの差異がなく、そして関係もなく、またそれらとの比較によって関係させようとすること自体がナンセンスなのです。
 ではこのようなことは結局、まったくの混沌にすぎないのかというと、そうだともいいきれないところがあります。この混沌にこそ人間と人間の新しい関係のしかた、人間と事物の新しい関係のしかたとしての「なま」の可能性があるのです。映画の終盤近くに男が、交通事故で死んだ女と同じ方法の死を死ぬことがそれを示していると思います。それはつまり、自分というものから自分と他人を絶対的に永遠に断絶するものであるところの死でもって、逆説的に男は女との有機的な関係を回復しようとしたのでした。それはけっして後追い心中のような意味合いのものではなく、生と死にとらわれた人間のあり方の限界をこえて関係しようとした試みでした。そう考えてみると、女の言う、

墓地といっても 本物じゃないわ 誰も埋葬されていない

という言葉で、この映画で初めてある一つの予感らしきものが見えてくるのです。海辺の場面で今までたどってきた砂浜の足跡を波が洗います。墓地があらゆるものの終局の場所であるならば、新しい出発もやはりそこから始められなければならないのです。

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