映画「酔いどれ天使」黒澤明 感想


監督 黒澤明
主演 志村喬 三船敏郎
1948年 日本作品

 あまり誰かに憧れるということはないのですが、この映画での三船敏郎の演じる松永には、ルックスもいれて、やはりある魅力を感ぜずにはいられません。その松永というのは粗暴、短気、強情、これだけの言葉で彼を表すことができます。しかし、松永は悪人になりきるには確かに愚直すぎたのです。彼のどの場面を切り取っても、ある憂鬱さ、空虚さを感じさせる表情は隠し切れませんでした。彼は花屋から一輪の花を取って、その花の香りに重たげな表情をするのです。そこに彼の失ってしまったもの、またはとうてい届くことのない淡い希望を見ていたのかもしれません。その瞬間は確かに、やくざ者の松永ではなく、一人の人間として憂鬱を感じている松永という人間でありました。その彼は、地域に幅をきかせているやくざ組の仁義なるものに自身を捧げていました。いばって、おどして、力でねじ伏せる。そんなやくざ者の松永に、医者の真田は痛烈に批判します。

お前が病気を怖がってるのを笑ってるんじゃない
それを恥ずかしがるお前の根性がおかしいんだ
自分で自分が頼れないからじゃないか

 真田は松永の逆上を買います。しかし、もちろん松永は真田に怒っているのではありません。ずばりと突かれて、その自分を許せないあまりに真田に食ってかかるのです。そんなことは言われなくてもわかっている、だが自分にどうしろと? という声が聞こえてくるようです。
 そしてついに松永は、その信じていた組の同士の凶刃に倒れます。私がこの映画で気に入るのは、あまりにもあっけなく松永の刺される瞬間の場面の淡々としているところです。人が死ぬところなど、決してドラマティックであるはずがありません。太陽が朝にのぼり、夜に沈んでいくように、人は淡々と生まれ、淡々と死んでいく。人の死を誇張しない、また人の生も手放しに称賛しない。しかし、期せずして松永には一つの死の決着の仕方がついてしまった。その松永には医者の真田にも決して癒やすことのできない彼自身の病が確かにあったのです。それは結核であったというのなら、私は、断じてそうではなかったと言いたいのです。松永が花を捨てたどぶ沼に、松永自身がその沼であえいでいたのです。助けてくれ、誰か助けてくれと、叫んでいた。酒でも癒やせない松永の病が、確かにそこにあったのです。

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