見出し画像

なぜ弘前にはフランス料理屋と洋菓子屋が多いのか?|【弘前】訪問記

先日、青森県の弘前(ひろさき)を訪れたのだが、食に関して、他の街にはない不思議な魅力があった。フランス料理屋と洋菓子屋が驚くほど多いのである。


弘前(ひろさき)とは?

弘前市は、青森県では青森市、八戸市に次いで三番目に人口が多い都市である。青森県では唯一の国立大学「弘前大学」があり、また洋館が多い街としても知られる。何より有名なのは春の桜祭りと、無形文化遺産に登録されている「ねぷたまつり」、そしてりんごだろう。

りんごの生産量は随一で、全国の25%を占めるとされる。りんごに対する熱量はとにかくすごいもので、駅にはりんごジュース専用の自販機があったり、お土産ショップがりんご系商品ばかりだったりする。

アップルパイなどのりんご系スイーツにも積極的だ。弘前には「アップルパイガイドマップ」と「タルトタタンガイドマップ」が存在しており、洋菓子屋のみならず、カフェやレストランなどあらゆる場所でりんごスイーツが販売されている。

いくつかの店でアップルパイを食べたが、パイ生地の質感から味付け、使っているりんごの品種など店ごとに違っており、食べ比べを楽しめた。ここまで一度にアップルパイの食べ比べができる街は、弘前を除いて他にはないだろう。

またりんごのワインであるシードルも盛んだ。県外ではそれほど一般的ではないシードルも、弘前のカフェやレストランでは簡単に見つけられる。銘柄も多く、アップルパイと同じく、飲み比べができる。ノンアルコールシードルがある店もあり、お酒が飲めない私でもシードルを楽しむことができた。

「青森・弘前といえばりんご」

そのイメージが一片も間違っていないことが、弘前を訪れるとわかる。

弘前のりんごはイメージ通りである。一方で、あまり知られていない(と思われる)食に関する特色がもう一つある。冒頭の通り、フランス料理屋と洋菓子屋が驚くほど多いのである。

フランス料理屋と洋菓子屋が多い街

弘前にはフランス料理屋と洋菓子屋が多い。具体的には弘前駅・中央弘前駅の周辺にフランス料理屋が8軒、洋菓子屋が10軒ある。フランス料理屋に関しては、カジュアルなビストロというよりは、きっちりしたコース料理を提供するフレンチレストランともいうべき店が多い。

ちなみに、弘前市の玄関口であるJR弘前駅は、電車は1時間に2、3本しかない。中央弘前駅という、弘前の中心地を匂わせる駅がもう1つ存在するが、こちらは前述の弘前駅から徒歩20分ほどの距離にある。中央弘前駅はねぷた祭りが開催される場所から近いのだが、電車は1時間に1、2本で、自動改札機はない。このような駅の周辺に、なぜかフランス料理屋と洋菓子屋がたくさん点在しているのだ。

今回は2軒のフランス料理屋と、8軒の洋菓子屋を訪問したが、どこもレベルが高かった。フランス料理屋に関しては、地元の良い食材を使った本格的な料理が、東京よりもリーズナブルな値段で食べることができ、都内でフレンチを食べるのが若干バカバカしくなってしまうほどであった。

それにしても何より気になるのは、どうして弘前はフランス料理屋と洋菓子屋が多いのかである。

なぜフランス料理屋と洋菓子屋が多いのか?

弘前の街にフランス料理屋と洋菓子屋が多い理由については、これだと言える確かなものは見つからなかったが、概ね以下の4つの要因が複合的に関係して、そのような街になったのではないかと考えている。

  • 明治期に進められた欧風化政策の影響

  • 料理人を育てる環境が存在した

  • フランス料理の街として弘前をPRした人たちが存在した

  • 良い食材、良い環境があった

◆明治期に進められた欧風化政策の影響

まずネットでは、明治期の弘前における西洋の文化を積極的に取り入れようとする気風が、現在のフランス料理屋が多い街をつくった理由として説明されることが多い。明治期の弘前は、西洋の文化に積極的だった。洋館の建築や英語の教師、宣教師として外国人の招待を積極的に行った。その影響で腕のある料理人が多かったとされている。また陸軍第8師団が設置され、その影響で街が栄えたことも、西洋料理屋が増えた理由として紹介される。

一方で、たとえ戦前にフランス料理屋が多かったとしても、戦時中は閉業を余儀なくされているはずである。戦後どのようにして、弘前がフランス料理と洋菓子の街になったのかについては、明治期の政策からではわかりにくい。

そもそも現在弘前にあるフランス料理屋と洋菓子屋の多くは、1990年代以降にオープンしているようである。戦前から存続しているフランス料理屋は見つからなかった。弘前にフランス料理屋が増えたのは比較的最近のことであると考えられる。明治時代の欧米政策も、少なからず関係しているだろうが、それが直接的な理由とは考えられない。

◆料理人を育てる環境が存在した

弘前がフランス料理と洋菓子の街になったのは、料理人を育てる環境があったことに要因の1つがあるのではないだろうか。

実は1989年に「弘前フランス料理研究会」というものが発足している。これは当時、ホテル法華クラブ弘前(現在は閉業)で料理長を勤めていた山崎隆が、知り合いの料理人30人で立ち上げた。目的はフランス料理を通じた調理技術向上であった(『ようこそ、フランス料理の街へ。』丸山馨、弘前大学出版)。この会には、天才シェフとして世界でも知られる三國清三がゲストとしてシンポジウムに参加することもあった。本物のフレンチの技術を伝える活動を行っていたのだ。

他にも、弘前で腕のいい料理人が育った要因として、ホテル法華クラブ弘前の存在は見逃せない。今は別のホテルになっているが、弘前のフランス料理屋のシェフの何人かは、ホテル法華クラブ弘前での修行経験がある。弘前フランス料理研究会を立ち上げた山崎隆は、法華クラブで料理長を務めていたし、フランス料理 Chez Ange(シェ・アンジュ)のシェフも法華クラブに勤務経験がある。

ホテル法華クラブ弘前は当時の弘前市内ではトップクラスのホテルであったとされている(『奇跡を起こす 見えないものを見る力』 (木村 秋則、SPA!BOOKS)。このホテルが料理人を育てるとともに、街の人に本格的なフランス料理の味を伝え、弘前にフランス料理屋が受け入れられる風土を育んだ可能性がある。

洋菓子屋が多い理由についても、やはりシェフを育てる環境があったのではないかと推察する。

◆フランス料理の街として弘前をPRした人たちが存在した

弘前をフランス料理の街にしようと奮闘した人たちの存在も確認できる。

『ようこそ、フランス料理の街へ。』によれば、弘前フランス料理研究会の初代会長である山崎は、1998年に弘前フランス料理研究会の一環として「フランス料理の街 弘前をめざして」と題したシンポジウムを行っている。また山崎は、メディアに出演する際、弘前を「フランス料理の街」として積極的にアピールを行った。

また2003年には、社団法人弘前市観光協会 (現・社団法人弘前市観光コンベンション協会)が「洋館とフランス料理の街ひろさき」のキャンペーンを打ち出している。この大使を務めたのが、三國清三である。三國のような世界的に有名なシェフが大使を務めたことの影響は少なからずあるだろう。また三國は、山崎の弘前をフランス料理の街にするという活動を積極的に応援していたとされる。

このように弘前をフランス料理の街として盛り上げようとした人たちが確認できる。これらのキャンペーンによって弘前にはフランス料理を求める人が集まり、フランス料理が受け入れられる土壌を育んだ。そんな様子を見て「フランス料理屋をやるなら弘前がいい」と思ったシェフもいたのではないだろうか。

◆いい食材、環境を求めて弘前に集まった

弘前の周辺で採れる良い食材や、その環境、風土の良さを求めて料理人が弘前に集まったことも考えられる。青森はりんごのみならず、あらゆる農作物が採れる。肉や魚も豊富である。鮮度にこだわるフレンチシェフやパティシエが、いい食材を求めてこの弘前を選んだ可能性は十分にある。

一度フレンチが多い街という評判が確立されれば、その後も店をオープンしたい人が集まってくる。フランス料理を受け入れてくれる街として知られているのだから。

◆洋菓子屋が多いのはフランス料理屋が多いことに付随してか

洋菓子屋が多いのは、フランス料理屋が多いことに密接な関係があるだろう。

今回いくつかの洋菓子屋を回ったが、店舗デザイン、ケーキのデザイン、ケーキのラインナップなどの点から、ここ10年、20年にオープンしたと思える店が多かった。昭和からありそうな洋菓子屋は2、3軒であった。洋菓子屋が増えたのは比較的最近であると考えられる。

洋菓子屋が増えた要因も、フランス料理屋が増えた要因と重なる。つまり、以下のような要因が複合的に関係しているのではないか。

  • シェフを育てる環境の存在(フランス料理屋と一流ホテルの存在)

  • いい材料をいい環境を求めて集まった

  • 洋菓子を受け入れる土壌があった

フランス料理のコースにデザートは欠かせない。そのデザートは、シェフが手掛けるか、パティシエを雇う。弘前のフランス料理屋、あるいはホテルでパティシエとして働いた人が、その後、独立した可能性はある。

また都市部で修行した人が独立の地として、弘前を選んだ可能性もある。弘前は良い食材と良い環境があるのはもちろんのこと、フランス料理をはじめとする、ヨーロッパ的なものに抵抗がない気質が存在する。

弘前には、1950年代後半にはすでに「ラグノオささき(洋菓子部門)」と、青森コロンバンの弘前店がオープンしている。コロンバンといえば、日本の洋菓子普及の歴史を語る上で欠かせない存在である。また1988年には、フランスで修行した三上順三の洋菓子屋「パリ亭」がオープンしている(現在閉店)。

このようなレベルが高い洋菓子を手掛ける店の存在が、弘前にヨーロッパ的なものを好む風土を育んだのではないだろうか。そして洋菓子職人は、そんな風土がある弘前を独立の地として選んだのではないだろうか。

おわりに

今回弘前を訪れたのは、弘前赤レンガ倉庫美術館での催しをみるためであった。Kindle Unlimitedにあった旅行ガイドブック『まっぷる青森』で、フランス料理が有名と書いてあったので、フランス料理屋が多いことは知っていたが、予想以上に多かった。

私はチーズケーキの食べ歩きをしているので、青森でもいくつかチーズケーキを食べようと思い、ケーキ屋を検索した。すると驚くほど多くの洋菓子屋がヒットした。さらに付け加えると、ケーキやアップルパイを提供しているカフェも多くあり、想定以上に多くのチーズケーキを食べることができた。

弘前にフランス料理屋と洋菓子屋が多い理由については、欧米文化に積極的な市民性に言及することが多い。しかしそれとは別に、弘前をフランス料理の街にするべく奮闘した人が存在したことも忘れてはいけない。そのような人たちの存在があり、弘前は日本でも珍しい、フランス料理の街になった可能性が高い。

ただし先にも述べたとおり、弘前がフランス料理と洋菓子の街になった確かな理由は結局分からない。様々な要因が複合的に重なって、そのような街になったのかもしれないと結論付けるのが、私の限界であった。

フランス料理と洋菓子に季節性はない。私は今回、桜もねぷたもない中途半端な時期に弘前を訪問したのだが、フランス料理と洋菓子屋めぐり、アップルパイの食べ比べなど、存分に満喫できた。さらに付け加えれば、洋館が多かったりバブル期を思わせるレトロ感のある街並みが残っていたり、あらゆる魅力が存在する街であった。

洋館。1階には喫茶店やレストランが入っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?