『むらさきのスカートの女』を読んで

「むらさきのスカートの女」/ 今村夏子

「むらさきのスカートの女」を読んだ。書店で見かける機会が多くて購入した一冊だった。以前紹介したように小説モードになかなかならなくて積読にしていた本だった。


しかし、ようやく小説読みたいの時期がやってきたので晴れて読み始めることができたのだ。

その淡々とした語り口が私には心地よくて気がついたら最後まで読み終えていた。とても面白かったという感想しか出てこなかったが、なぜかどうしてもまた読みたいという衝動に駆られて読み終わってすぐにまた読み始めた。

何回も読んでいくうちに、語り手をどこまで信用してもいいのか分からなくてどこまでが現実でどこまでが妄想なのか分からなくなった。

この感覚はホアキン・フェニックス主演「JOKER」を鑑賞し終わった後にも感じた。

語り手の信頼度によって物語の見方も変わってくると思うのだが、みなさんはどれくらい語り手を信用して物語を読み進めたり、見続けているのでしょうか。もちろん作品によっても変わると思うのですが、とても気になります。

そういった語り手への信頼の揺らぎもありながら本書を読み終えてぽわぽわと考えていたのだが、「むらさきのスカートの女」を執拗に観察している「黄色いカーディガンの女」を執拗に観察している「わたし」という構図に気がついたのは本を読み終わって時間が経ってからだった。

あの時「なぜかどうしてもまた読みたい」と感じた衝動は観察者としてのそれだったのではないかと今は感じる。むらさきのスカートの女を観察したい私、黄色いカーディガンの女を観察したい私。

私たちは知らず知らずのうちに観察者になっているし、気づかないうちに観察されているんだろうなと感じた。

気になった方はぜひ「むらさきのスカートの女」を読んでみてください。



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