宮嶋みぎわさんインタビュー(完全版)

ニューヨークを拠点に活躍する音楽家、宮嶋みぎわさん。ビッグバンドリーダーであり、ピアニスト、プロデューサーでもある宮嶋さんは会社員から30歳で音楽家に転身、渡米という異色の経歴の持ち主でもあります。今回、宮嶋さんにはオンラインインタビューさせて頂く機会を得て、お話をたっぷり伺いました。当日はclubhouseでも同時中継、宮嶋さんのエネルギーに圧倒され、素晴らしいお話の数々に私もいちリスナーのような気持ちで夢中になってしまいました。宮嶋さんの現在企画なさっている数々のプロジェクトのお話、ニューヨークの様子やビッグバンド事情など読み応えたっぷりの記事です。
WEBマガジンCheer Up!には面白いお話の全てを掲載できなかったのですが、こちらnoteには完全版をUPします。
どうぞじっくりお楽しみください。

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---宮嶋さんは、2011年の東日本大震災の被災者の方々にインタビューしてそれを曲にされて、シングルとミニブックを出されるとのこと。このプロジェクトを始めることになったきっかけを伺えますか?

宮嶋:プロジェクトの名前は英語で「Unbreakable Hope and Resilience」といいます。Unbreakable Hopeは"壊すことの出来ない希望"、Resilienceは、最近ではそのままレジリエンスと使う人もいるようなんですけど、訳するとすごく辛い状況から元に戻って行く時、リカバリーして行く時の力みたいなのをレジリエンスって呼ぶんですよね。
希望の灯も消えないし、大変なことがあってもそこから戻っていく力っていうのは実は消えないものなんだよっていうことを言いたいっていうプロジェクトなんです。

10年前の震災の後って、本当に私たちみんな大変でしたよね。

---そうですね。私は仙台在住ですが、もう二度とあんな体験はしたくないですし、辛いことばかりでした。

宮嶋:よく、"ネガティブなことはポジティブに転換しちゃえばいい"っていうことを言われる方もいらっしゃると思うんですけど、「できないよ」っていうものってこの世に結構ありますね。

---ありますよね…。

宮嶋:その一つが私にとって、やっぱり3月11日の震災の経験で、あれは本当にもう無かったことにしたい。過去に戻って消しゴムで消せるんだったら消したい。本当にもう、それが無かったらどれだけ自分の人生楽だったろう?良かっただろうなと何度も思うようなことだけど、でも正直言ってそういうことって人生で起きちゃうこと、あるじゃないですか。
自分が人を失うとか、自分の大事な人が何かを失ったのを見なきゃいけないとか。

そういうすごい大変な経験をした人たちが10年経って、「そろそろ未来のことを考え始めてもいいかなあ、ちょっと前向きに生きていってみてもいいかな」みたいなことを言い始める力が湧いてきてる方がいらっしゃるんですよ。
それを見てると、落ち込んだ状態からちょっと元気になってくるまでにかかる時間というのは本当に人それぞれでバラバラなんだけど、ひとくくりにして10年ぐらい見てみると、結構みんなが、「そろそろ明日のことを考えて、暗い方ではなくて希望を見て歩いて行ってみようかな」と考え方が変わったり、感じ方が変わったりしてくるのをたくさん目撃して。これってすごいな!と思うんです、本当に。

人間の中にそういう力があるっていうこと、私は多分311を見てなかったら知らなかったと思うんですよ。もしかして、311ほどの経験をしても10年経つとそういう風に思うことができるように、人間って作られているのかな?って思い始めています。

だから逆に言うと、すごく辛い状況にある方は、別に自分を「頑張れ頑張れ!」って強制しなくてもいいのかもしれない。「いま頑張れていないから私はだめだ」と思っていても、多分10年ぐらいすると自然に、もしかしたら前を向けるようになるのかもしれない。

世の中には、嘘っぽい励ましってすごくいっぱいあると思うんです。「辛いことがあったらポジティブに変えてしまえばいいよ」とか「涙の数だけ優しくなれる」とか、私この言い回し嫌いなんですけど(笑)。涙の数だけ優しくなれるかもしれないけど、涙はないほうがいいじゃん(笑)。本当にすごく辛い経験をしていると。その辺リアルに分かるわけで…。

---分かります。わざわざあんなにも辛いことを経験しなくてもいい。経験しないほうがいいです。

宮嶋:私は今、ニューヨークに住んでいますが、新型コロナウィルスの被害って、一時期本当に悲惨だったんです。
例えば私の仲良しのお姉さんの家の近くには大病院があって、そこにずっと死体を入れるための冷凍車が止まってるんですね。毎日家の外を見ると、その冷凍車が止まっているのを見なきゃいけない。死体を格納するための冷凍車です。そんな状況のニューヨークでこの1年ほど生きてきたわけですが、ある時「待てよ」って思って。「私は東日本の震災で1回こういうきつい状態を経験している。きつい状態からでも10年ぐらいたつとちょっとずつ、心の中に希望の種が芽生えてくるのを体験したよね?それってどういう感じで蕾になって花として開いていったんだっけ?わたし、せっかく一度体験したんだから、そのプロセスを思い出して伝えたほうがいいんじゃないの?」って。
これを言葉で言うときつい感じになったり、「頑張れ頑張れ!」って矯正してるように聞こえるかもしれないけど、音楽で、ならもっとやさしく伝わるかもしれないし、これって、私のミッションなんじゃないの?って思い始めたんですよね。

---宮嶋さんだからこそできることですよね。

宮嶋:実は、いまから2年前ぐらいから、このプロジェクトを本格的にやり始めていて、被災者やボランティアの方にもインタビューをしていたところだったんです。
そこへ、こういうコロナ禍になって、世の中本当にまずいぞ、みんな未来に希望があるっていう風にちょっと思えなくなっている。いつになったらこれが終わるかわからないから。
だからこそ、311後に私が見てきた希望のストーリーを音楽を通してコロナで苦しんでる世界の皆さんに向かって発信していくことができたら・・・それって私がやるべき仕事だし、やりたいことでもあるし。

---宮嶋さんご自身はどちらで震災に遭われたんですか?

宮嶋:東京にいて、茨城の家族と連絡がつかなくなってたんですよ。あれは辛かったなぁ。

---心配過ぎておかしくなりそうになりますよね。

宮嶋:うちの家族はそんなに被害は受けなかったんですけどね。でもうちの母はいろいろなストレスが重なって、震災の5年後にがんになったんです。そういう人って当時いっぱいいましたよね。直接被災していなくても、親友の家がなくなったら親友と同じくらい自分も傷つくし…。あの時すごくたくさん傷ついた人がいて。

だからいろんな状況を体験した方をインタビューして、その方たちのリアルストーリーに基づいて曲を作って、その方の10年間の物語や、この先の10年をどうやって生きていこうとその人が思っているかを曲にしよう、というのが最初の計画でした。10曲書いて、フルアルバムにして出すっていうのが元々のプランだったんです。でもコロナの状況で全部計画飛んじゃって、レコーディングが出来なかったんですよ。

結局、二つにリリースを切り分けることにしました。3月にシングルとミニブックをリリースして、今年の12月までにはフルアルバムを録ってリリースします。

---ミニブックには被災者の方々へのインタビュー内容が収録されるのですか?

宮嶋:そうなんです。
大変な思いをした方って深いところまで心が行くからだと思うんですけど、仰ること一言一言の重みが違うんですよね。
「悩んでいた時にもしこの一言を聞けていたらもっと早く立ち直れただろうな」というあまりに素晴らしい言葉が、聞かせて頂いた中にたくさんあって。

だから、それらの言葉を読めるように本も作ることにしたんです。インタビューからの引用文を13個選んで、その言葉と一緒に希望を感じられるイラストをレイアウトした本です。

本の中にはQRコードを入れてあってQRコードをスキャンすると私の作った曲を3曲スマホで聴けます。本と3つのオリジナル曲を一緒にリリースする、という形ですね。

---3月末リリースのご予定なんですね。

宮嶋:本当は3月11日までに出したかったんですが、コロナってビックリするぐらいいろんなものを遅れさせますね。例えば、お子さんの学校の予定が変わるとか、お友達がコロナにかかっちゃったのでケアしてあげなきゃいけないとか、私だけでなく仕事仲間の生活に色々予期しないことが起きて。それでいろいろずれてしまって。でも3月末に出す予定で動いています。

---リリースがとても楽しみです。そして12月にはフルアルバムを出されるということで、作曲は全部宮嶋さんなのですか?

宮嶋:はい。私がコンポーザーで、17人編成の私のジャズオーケストラで演奏してもらって全部収録しようと思ってます。


---作曲はどのくらい進んだのですか?

宮嶋:作曲は結構進んだんですけど、去年コロナがあって、一年間ロックダウンで苦しんだりしてるうちに、私の中の気持ちがすごく変わっちゃって。

例えば津波で両親を一気に失った50代の女性。その方は、うつ病に苦しまれてずっと引きこもっていたんですが、結局今は自分の体験を語り部として語ることで人生の大切さを、修学旅行で来た子供さん達に伝える活動をお仕事にするようになって。
高橋匡美さんって方なんですけど、本当に力強いお話で、伺ったお話の中のここの部分を曲にしよう!と決めて、曲は一度完成しました。

でもコロナを経験したらどこを書きたいか変わっちゃったんです!
2時間も3時間も伺ったお話のなかで、どこの部分を曲にしたいかがすっかり変わっちゃって。
だからもう、一から作り直します。これから。自分の気持ちと違うものを出すわけにはいかないから。

---見通しはいかがですか?アメリカでは随分ワクチン接種も進みつつあるようですが、もうちょっと落ち着いてきたら皆さんで集まってレコーディングされるのでしょうか。

宮嶋:そうですね。みんなでレコーディングできるようになるまでに全ての準備を終えておけば。パッケージデザインとか、中に入れる文字の校正とか、そういうことを先に全部済ませておけば、10月ギリギリにレコーディングできれば、CDは12月に出せるんですよ。そのプランで行こうかなと思っています。

---宮嶋さんの段取力が凄いですよね!

宮嶋:サラリーマンだったからなんですよね~。私はリクルートで3つの仕事をやって、最初は「SUUMO」の部署で住宅広告を作る仕事だったんです。次は社内のシステム開発の仕事でした。ITエンジニアですね。
そして「じゃらん」の編集者になって記事を書いてて、最後は編集デスクにまでなったんですけど、辞めて何の安定感もないジャズミュージシャンになるという(笑)。

---それで渡米されたんですよね。

宮嶋:はい、国費留学しました。文化庁の新進芸術家海外研修制度、という奨学金で日本全国で100人ぐらいのアーティストがもらえるものなんです。
ダンサーもいれば映画監督も音楽家もいる。いろんなジャンルの芸術家が「私の芸術を高めるためには海外での研修が必要だから、こういうプランで勉強したい。そのための奨学金をください」って文化庁に申請できるシステムがあるんです。

それに合格してニューヨークに来ることができました。
尊敬している作曲の先生、ジム・マクニーリーさんの弟子になりました。私がやってるビッグバンドジャズっていう16人とか17人のジャズ編成で、もう本当に世界的な天才と言われている方なんです。

---その後はずっとニューヨークにお住まいなのですか?

宮嶋:そうです。
ニューヨークの作曲者のレベルって凄いんですよ。同じジャンルのことをやってる人で、超ド級の天才が周りにゴロゴロいるんです。ちょっとサボってたらすぐに業界で忘れられちゃう。あっという間に業界からいなくなることができちゃうわけですよね。

だからすごい厳しい場所なんだけど。コミュニティのサイズは小さいんですよ。ビッグバンドやってる人同士はそのコミュニティの中でみんなお互いに知ってるような感じです。作曲家もミュージシャンもお互いに全員知り合いで(笑)。
天才でも先輩でも年が上でも下でも、いい曲書く人はお互いにみんな知りあいな世界なんですよね。

---繋がりがすぐできるんですね。

宮嶋:繋がりもすぐできるし、助け合いの精神も強いです。私が友達とやってるのは、集まってお互いの曲をどうしたらもっとよくできるか教え合いっこしよう会です。楽譜を持ち寄って。録音した音源と楽譜を持って集まって、ご飯食べながらお互いに「ここってもうちょっと音をこうしたら?」とか「こういうアイディアもあるんじゃない?」なんて意見交換するとか、楽しいんですよ。

---単なる競争心だけじゃなく、お互い切磋琢磨してるんですね。

宮嶋:そうだと思います。切磋琢磨しよう!という人がすごく多いです。
競争して勝っていく!というやり方を好む方も中にはいて、そういう人は周りとつるまないで孤高の人って感じで頑張ってますが、数多くの人が、私のようなタイプで、集まってお互いに教えっこして、自分の持ってない手法を持ってる人から学んで、「もっと良くなりたい!」って考えて、行動していますね。

---素晴らしい環境なんですね!
とはいえ、健康で体力とか気力が充実していないとなかなか大変だと思います。そういう秘訣があれば教えて頂けますか?

宮嶋:体調についてはニューヨークの私が知る限りの活躍するミュージシャンは、ほぼ全員みんなものすごい気を遣っていますね。エクササイズしてる人も多いし、私はヨガをやっています。
食べ物にめちゃくちゃ気をつけている人も多くて、この前亡くなられたチック・コリアさん、直前まですごくお元気だったんですよ。駆け回って活動なさってて。彼なんて代表例みたいな方で、一時期太られた時期もあったんですけど、近年はツアーにもシェフを連れて歩いていたんですって。健康のことを気遣うあまり。チックさんの食べるものは全部専任のシェフの方が彼の健康に合わせて作っていたらしいです。
みんな健康にはすごい気を遣っていて、私も食べ物と運動とのバランスにはすごく気を遣っています。

あとは心の面でいうと、アーティストって結構心のコントロールが難しいと思ってる人は多いんじゃないかなと思ってるんですね。
私の場合は、会社員だった時の自分のメンタルの状況と音楽家になってからのメンタルの状況が明らかに変わって。アメリカで音楽家をやるようになってからは、さらに自分との付き合い方が変わりました。

---そのあたり、詳しく伺いたいです!

宮嶋:会社を辞めてから分かったんですけど、辞めてみたらやっぱり会社の周りの方たちに合わせていたし、会社で求められるキャラクターを演じるのにものすごく一生懸命になっていたんです。
会社の用意した箱みたいな枠みたいなものがあって、その枠に自分の体のサイズが合わないのにぎゅうぎゅうに詰めて暮らしてたみたいな感じだったなって、辞めてから分かりました。
その枠に閉じこもって周りに板まで付けて鎧のようにプロテクトして、会社の中で行動してたんですよね。
で、気がついたのは、その鎧って、自分がどんな人間かばれないから自分を傷つけるものからのプロテクションにもなっていたんですよ。

会社を辞めたら、感情の振れ幅が上と下と両方に広がったんですよ。
だから楽しいこととか嬉しいこととかもう何十倍にも強く感じるようになったんですけど、ショックなことも、かなり強く感じるようになって。全部の感情が全方向に向かって拡がったんですね。
アメリカに来たら更に発見があって。私はそれまでも結構自由に生きてるつもりだったんですが、ニューヨークに住んでる人たちはさらにもっと自由だったんですよ、私よりも(笑)。
それに、私は自分の事分かってるつもりだったけど、全然わかってなかったなぁってね。
そこから私は、どういう時に辛くなるのか?どういう時に嬉しくなるのか?どういうことを自分にしてあげたら自分が喜ぶのか?どういうことをやったら私は嫌だって思うのか?一個一個学習し直して10年になります。
最近になってやっと、私、自分のことわかってきたかもしれないし、生きるのが今までで一番楽しいかもしれないって思い始めました。


---宮嶋さんのお母様は、作家の三浦綾子さん(編集部注:1922-1999 北海道旭川市出身の作家。何度もドラマ化された「氷点」でも知られる)の初代秘書だったそうですね!私はほとんどの作品を読んでいて、母も大ファンで友人や親戚と回し読みしては感想を語り合っていました。三浦綾子さんのお話もちょっと伺いたいです。

宮嶋:私は綾子おばちゃんって呼んでいたんですけど、孫のように接してもらっていました。
綾子さんはお子さんがいらっしゃらなかったので、一番最初の秘書だったうちの母を本当の子供みたいに思ってくださっていたようなんですよ。ご夫婦ともに母のことをすごく大事にしてくださって、娘のように接してくれていたんです。
だから私たち(姉妹)は孫みたいにしてくれて、誕生日のたびにお手紙もらったり。
あとね、しょっちゅうやってたのが、学校のテストでいい点とったとか作文に花丸がついてたのは送っていました。そうするとお手紙下さって、「みぎわちゃん、今回も一生懸命お勉強したんですね」って。

私の本当の祖父母は、父方も母方もすごく身体が弱くて、子供のころ一緒に遊ぶような楽しい経験ができなかったんですよ。だから、おじいちゃん・おばあちゃんっていう経験をさせてくれたのが、三浦綾子さん・光世さん夫妻でした。
素晴らしい方たちです。素晴らしい方々としてしかいろんなところに描かれていないので、こんなに素晴らしい方々がいるなんて嘘だろって思う人もいるかもしれないけど、でもほんとに素晴らしいんです(笑)。
とても幸運な子供時代でした。

---わぁ~、こんなエピソードを伺えて大感激です。宮嶋さんのお好きな三浦綾子さんの作品はいかがですか?
私はやっぱり高校時代に出会って、夜遅くまで読みふけった「氷点」なのですが…。

宮嶋:私は「道ありき」三部作(注:三浦綾子の自伝。「道ありき」「この土の器をも」「光あるうちに」)ですね。綾子おばちゃんの本当の人生の話を書いている本です。あの本を私が好きなのは、本人を知ってるからですね。「あぁ、こういう人生だったのか」っていうね。
私が物心ついたころには母は秘書を辞めて主婦になっていて、その頃綾子おばちゃんは、押しも押されぬ大スター作家。大スター作家になるまでの道のりが全部書かれていて、それが想像できないような話なんですよね。
ご存知かもしれませんが、13年間寝たきりだった時期があるんですから。

---その精神力が凄いですよね。

宮嶋:ほんとほんと!あとクリエイティブなんです、綾子おばちゃんは。寝たきりの間に「医療費がかさむばかりで家族に迷惑かけちゃう」って思ったみたいで、北海道土産として使える暖簾をデザインしていたんです。
寝たきりの綾子おばちゃんが、暖簾を商品化する人とタッグを組んで作って卸してちゃんとお金儲けをしていたというのが凄くないですか?

---凄すぎです!!

宮嶋:もう凄すぎて!13年寝たきりで、なんでそんなこと考え付くんだろうなぁ~って。
「道ありき」にはそういう話がいろいろ書いてあって、旦那さんとどうやって出会ったかも書いてあって、それから、戦時中に学校の先生をしていた時に子供たちに教科書に墨を塗らせるっていう体験も書いてあって。ものすごい人生なんですよ。
たくさんいい小説があって、「氷点」「塩狩峠」が特に有名で、どっちもとても素晴らしい作品だと思うけど、私にとっては綾子おばちゃんの人生が、綾子おばちゃんの書いたどんな小説よりも凄い!って思ってました(笑)。

---宮嶋さんの人生にも影響はありましたか?

宮嶋:絶対あると思います。本当のおばあちゃんだったみたいな気持ちですね。
まず、母が本当に影響受けてるんです。母のものの考え方とか子育ての時の指針とか、そういうのがすごく綾子おばちゃんから学んだことで構成されていると言うか、それを小さいころから沢山聞いて育ってきたし。その流れで私の中に綾子おばちゃんから来たものがDNAに入ってると思うんですよね。

覚えてる話は沢山ありますよ。日本全国からお悩み相談の手紙が来るんですって。本当に深刻な人生相談ばかりなんですよ。あまりにも数が多くて全部自分で書けないので秘書が代筆するんですけど、「この方にはこういう内容とこういう内容をお伝えするお返事を書いてください」って全部お手紙を読んで全部指示していらしたんです。
うちの母が秘書だった時も代筆していて、書き終わったら綾子おばちゃんと光世おじちゃんがチェックしてからお送りしていたそうです。それで本当に何人もお返事を受け取って自殺を思いとどまったような方もいらっしゃったそうです。

---貴重なエピソードをたくさん伺えて感激です。私も本を読み返そうと思います。

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---さて、宮嶋さんといえばビッグバンド。そのお話を伺いたいです。
ヴァンガード・ジャズ・オーケストラに関わられたということが凄いんですけど、何年ぐらいお仕事されたのですか?

宮嶋:ヴァンガード・ジャズ・オーケストラとは全部で10年ぐらい仕事しまして、その後私の1stアルバム『Colorful』を出す時にとんでもなく自分の仕事で忙しくなったので無理だと思い、そこで引退させていただきました。
でも、今でも彼らが日本の仕事をする時にはリーダーたちから電話がかかってくるんですよ(笑)。
「みぎわ、こういう案件があるんだけど、こういう時にはどうすればいいんだ?」とか。日本の常識とアメリカの常識はすごく違うので。意見ちょうだい、みたいな電話がしょっちゅう来ます。

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---現在の"The Miggy Augmented Orchestra"はどうやって人を集めたんですか?

宮嶋:私はアメリカに来て1年目からプロの作曲家向けのワークショップというのに入ったんです。これはたぶんニューヨークにしかない制度だってみんな言ってるから本当に多分そうなんだと思うんですが、プロのビッグバンドジャズの作曲家しか入れないワークショップなんです。

最初に審査みたいなのがあって、その試験にパスすると最大で3年間まで、1週間に1回ずつその道の専門家の先生たちのアドバイスを受けることができて、かつ2ヶ月に1回はそのワークショップバンドみたいなビッグバンドの人たちが会場にいてくれて、新曲を書いて持っていくとその方たちが初見で演奏してくれるんです。

ビッグバンドの作曲をしてる人達ってなかなか試奏が出来なくて。リハーサルのためのスタジオを予約するのも凄い高いし、メンバーに謝礼を払うとまたそれもすごいお金が高い。
成長したい作曲家でも、自分が書いたものを実際に演奏してもらってフィードバックをもらう場がないんですよね。それをやろうとするとものすごくお金がかかってしまう。

そういうお金とか負担を作曲家にかけず、作曲家の能力を伸ばしてあげよう、っていう場なんです。初見でほぼパーフェクトに演奏できるレベルの演奏家の人達が待ってくれてる場を作って、2ヶ月に1回曲を持っていったらその人達が演奏してくれて、しかもそこに先生がいてフィードバックをくれて。それは無料で受けられるという。

---すごい!!溜息が出てしまいます。

宮嶋:ほんとすごいことですよね。
私はニューヨークに来てから3年間、そのワークショップのメンバーだったんです。
そこでいろんな方に出会って、例えば作曲家仲間として出会った人が、実は腕のいいサックス奏者だったとか。
初見で演奏してくれるワークショップバンドの人たちの中に、すごく好みの演奏をする方がいたらスカウトして自分のバンドに入ってもらったり。

そうやって「この人欲しい!」って一人ずつ一本釣りで。一本釣りした後は、セクションを組んでもらうことになったら隣同士で演奏するから、気が合ってちゃんといい仲間になれるように考えて。この席が埋まったから次はどうしようかな?って、本当に一人ずつセレクトしていって、ニューヨークに住み始めて3年後ぐらいまでにバンドメンバーを決めていったんです。

---そのメンバーはずっと固定ですか?

宮嶋:今までに変更になったのは一人だけですね。すごく忙しくなっちゃって、しかも実家がオーストラリアで行ったり来たりになっちゃったから。その方以外はずっと同じメンバーです。
2017年にはもうほとんど今のメンバーになってましたね。


---これだけの人数がいるとビッグバンド内の揉め事もあって、仲裁にも詳しくなられたとか?

宮嶋:ビッグバンドは長年やっていると絶対揉め事が起こるんです。
うちのバンドは揉めないです。っていうのは、私が最初から揉めなさそうなメンバーを選んだから(笑)。

それを学んだのはヴァンガード・ジャズ・オーケストラ。音楽的な議論で揉める感じの話し方になることがよくあるんですよ!それは仕方ないんですよ。ヴァンガード・ジャズ・オーケストラ・クラスになると全メンバーが世界的アーティストなんで、16人の世界的アーティストのプライドとプライド16個ぶつかってるわけです。
そうなるとどうしようもないんで、私は議論が始まると、その場をさっと離れて、解決したかな?と思う頃に戻ったりしてましたね。こうなっちゃったら何も手が出せないから(笑)。世界的アーティスト16人の集まりはほんと難しいですね。
でもみんな開けっ広げに喧嘩してワーワー言って、翌日にはみんなで冗談言ってるような、そういう感じなので、気持ちがいいですよ!

---サッパリしていて良いですね!

宮嶋:そうそう、だから放っておくのが一番いいんですよ(笑)。

---ニューヨークにはプロのビッグバンドがたくさんあるんですか?

宮嶋:たくさんあります。私の知り合いで、JC Sanfordというビッグバンドリーダーが2014年まで素晴らしい活動をしていました。名前がまだ売れてないけど作曲の才能はあるビッグバンドのリーダーの人たちに発表の場を与える活動で、大きな敷地面積のカフェと契約して、毎週月曜日の夜に新進気鋭のリーダーが率いるビッグバンドがそのお店で演奏できるようにしてくれたんです。
お店からギャラは出ないけど、投げ銭でお客さんたちがくれたお金は持って帰っていいよ、って。

それを2014年まで4年半やった彼が、少なくともアクティブに動いているビッグバンドは常に60個はあるって言ってましたね。
アクティブにやっていなくて、2年に1回やって解散してまた戻るっていうビッグバンドも入れるとものすごい数になるそうです。

---宮嶋さんは、ビッグバンド以外にカルテットやデュオを組んでライブ活動をされることもあるのですか?

宮嶋:日本ではたくさんやっていたんですよ。でもニューヨークはあまりにも競争が激しくて、いま私は自分を「ビッグバンドの作曲家です」っていう面でしか切り取らないで見せて、覚えてもらうことに徹しているんです。
この人はビッグバンドの人で、ビッグバンドの曲を書ける人なんだっていうことをニューヨークのジャズシーンで一回覚えてもらおうと思って。専門があれこれありすぎると、覚えてもらえないので。


---宮嶋さんはセルフプロデュース力がすごいですよね。そして社会貢献についての実践、問題意識を常に持ち、TwitterやClobhouseで発信されていらっしゃる。
WEBの詳細なプロフィールを拝見するとご趣味も幅広いですね。

宮嶋:新しい趣味は山歩き。これはコロナの間にストレスがたまりすぎちゃって。救急車のサイレンがずっと鳴っていたり。セントラルパークの散歩コースに仮設の病棟ができちゃったり。病院の床面積が足りなくなったから…。いろいろあったんですよ。
本当に辛くなっちゃって、ストレスを解消するためにはどうすればいいかな?って編み出していって。
結果、山にハイキングに行くのがすごく良かったんです。ニューヨークから2時間ぐらい車を走らせると、結構山や良いハイキングコースがたくさんあって、緑の中を歩いていくとすごく癒されて、自然の力を思い知らされました。

---現在(2021/2/23時点)では外出は可能なんですか?

宮嶋:出かけられますが、あまりみんな出かけないですね。建物の中でご飯食べられるのがつい先日再開したばかり。それまではずっと食べられなかったです。一回建物の中でご飯食べられるのを再開したら、感染率が上がっちゃったんですよ。すぐ禁止になって、アウトドアの席でご飯食べるんだったらオッケーよっていう風になった時期が長かったんです。真冬の寒い時期も。
やっとインドア解禁になりましたけど、まだみんな怖くてあまり行かないですね。

---お買い物はいかがですか?

宮嶋:食料品屋さんは行けますが、人数制限があることが多いですね。
それ以外は、例えば洋服を買っても着て行く場所がないし、だからみんな買わなくなっちゃったですね。

---必要最小限のお買い物なんですね。

宮嶋:そうです。ミニマムな買い物になりましたね。
家にずっといるのって、やっぱりヘルシーじゃないですよね。同じところにずっと居て。
でも山に行けば、奥のほうに人がいなければマスク外せるし、緑があると空気を吸って気持ちが良いし。この前は雪が積もったハイキングコースを歩きまわったんですけど、すっごく良かったです!

---制限も多い中で工夫されてるんですね。
ここからは宮嶋さんの音楽キャリアをお伺いしたいと思います。
音楽大学には行かれなかったそうですが、子供の頃からピアノと作曲を始められていたそうですね。

宮嶋:私が習ってきた先生たちは、「お前を絶対音大に入れる!」みたいなスパルタな先生は誰もいなくて。
どちらかと言えば、音楽の楽しさや、音楽で自分を表現することを教えてくださる先生ばかりでした。
18歳までピアノを習ってました。

---ジャズに出会ったのはいつ頃ですか?

宮嶋:この話はねぇ(笑)、面白いんですよ。実は周りの人たちからは音大に行ったらいいんじゃないかってめちゃくちゃ勧められたんですね。ピアノ弾くのが結構上手だったんで。
当時日本の大学ではダブルメジャー、例えば音楽と文学を両方専攻するというのをできなくて、音楽を専攻すると決めた途端、他の勉強はあまり出来なくなるんですよよ。東京の有名な先生のところに茨城から通わなきゃならなかったりとか。場合によっては海外にレッスン受けに行ったりとか。クラシックの道でプロになろうとすると、日本の場合、ほぼスパルタ教育の道になるんですよね。

中学生の時に旺文社とソニーが組んでやっていた中学生向けの作曲コンテストがあったんですけど、それで中学3年の時に優勝したんですよ。
そのせいもあったのか、音大に行かないの?プロにならないの?って周りからたくさん言われていたから、自分のアイデンティティーと音楽がすごく結びついていて。
でも高校3年の時、私はやっぱり別の勉強もやりたいから、ここで音楽一本に絞れないやと思って音楽の道へ進むのをやめたんですよね。私は教育学を勉強をしたいと思って、上智大学文学部教育学科っていうところに進んだんです。

小さい時から"この子は音楽ができる"みたいに思われてて、小学校でも何かのピアノ伴奏といえば私!っていつも選ばれて、作曲コンテストの全国優勝でもすごいスポットライトを浴びちゃっていた私が、普通の大学に行きますって、音楽をパチッと切ったら、そこでアイデンティティー崩壊を起こしたんです。ピアノの部屋にも入れなくなっちゃった。今まで自分の人生にくっついてると思っていたピアノや作曲というものを一切できなくなって。自分で決めたことなのに傷ついちゃった。

高校3年でその崩壊が起き、上智大学を受験して受かって、大学1年生までの間ずっとピアノをやってなかった。
自分とピアノってものを切り離したんです。ピアノは私の人生から排除したから、もうやらない。私の人生には、もうピアノはない、作曲もしないって過ごしてたんだけど、大学で仲良くなった友達からある日、私が中学や高校で作った曲を聞かせてほしいって言われたんです。それで聞かせたらすごく喜んじゃって。当時はわたし、ポップスみたいな曲を作ってたんです。
友達は「すごいね!才能ある!」って言ってくれて、でも私はもう音楽は絶対やらないって決めてました。

その頃、私はすごく体調不良が多かったんです。いつも具合悪かったんですよ。
大学二年になったある日、当時の私の親友ジュンコが突然「みぎわね、そうやっていつまでも音楽から逃げてるからいつも体調が悪いんだよ!」って。

---ジュンコさん!鋭いですね!

宮嶋:そうそう(笑)。今でもジュンコとは親友なんですけど。もう見抜かれちゃったんですよね。
ジュンコは「クラシックで挫折したんだったら、ジャズやればいいんだよ、ジャズ!!」って突然言い出して。
ちょうどその日は4月だったんです。ジュンコは私の手をひいて、「行くよ!」って学食のある地下から一階まで走って。学内では新入生歓迎とかサークル勧誘が行われている時期だったんです。
ジュンコはそのメインストリートの、いろんなサークルがのぼりやポスターを出して勧誘しているところで「えーと、ジャズジャズジャズ!ジャズのサークル」って、私が頼んでないのに勝手に探し始めて、「あった!ジャズ!」って彼女が見つけたのが、たまたまビッグバンドのサークルだったんです。少人数のコンボのサークルじゃなくて。
今でもジュンコは全く性格変わってないんですけど、すっごいお節介なんですよ(笑)。

そのまま私をズルズルズルって連れてって、そのサークルの勧誘シートにバーン!と座らせて、ジュンコが全部私の後ろから「この子がジャズやりたいそうなんです。この子は3歳からピアノやってて腕前はプロ並みで、中学の時に作曲コンテストで全国優勝していて、今でも作曲をやってる子なんで、ジャズのアドリブできると思います!」って全部言って。

---すごいですね、ジュンコさん…(笑)。

宮嶋:サークルの3年生、4年生からすれば、期待の新人が来たら逃したくないじゃないですか!これ、僕たちの演奏じゃなくて、僕たちがコピーしているアメリカのジャズバンドの演奏が入ってるからこの音源聴いてみて!って、音源をくれたんですよ。
それを家に帰って聴いたら、もうノックアウトされてしまって。ものすごい音圧でバーン!と飛んでくる中にピアノが軽やかに混ざってるのを聴いて、「これって、私の知ってるピアノと違う!」って。「世の中にこんな格好いい音楽があったんだ!」って稲妻がバーンと落ちたようになって。そういう出会い方をしたんです。

---はぁ~、すごい出会い方だったんですね。ドラマティック過ぎる!

宮嶋:それまでの、体が虚弱体質ですって言われて漢方薬ずっと飲んだりしてたんですけど、そういう症状が全部消えて、治っちゃって。それまで虚弱体質って言われてたとは思えないですよね、って言われるぐらい活発になって。だから、出会っちゃったんですよね、本当に好きなものに。

---それでも大学卒業後は会社員として就職されたんですよね。
社会人になってからも何か音楽活動をされていたのですか?

宮嶋:そうですね。音楽を辞めてたのは会社員一年目の、会社生活についていくので精一杯だった時期だけで、会社員二年目では自分でオリジナル曲を作って、それを演奏するためのビッグバンドを自分で作ったんです。
メンバーは主に学生の時の友達ですね。学生も社会人になりたての子もいましたけど、学生でも一生懸命練習してるから結構上手いんですよね。
それが私の今やってることの基になってて、私はそこからずっと社会人バンドのリーダーというのをしばらくやっていたんです。あと数年したら、ビッグバンドに出会って30周年記念です!今でもかっこいい音楽だと思います。

---私もビッグバンドジャズの華やかさが大好きです。気持ちがあがりますね。

宮嶋:そうですよね。渋い演奏をしようと思ったらビッグバンドでも、全員でなく2~3人セレクトして渋い演奏をしてもらって、後で全員でバーンと入って華やかな演奏を始めれば、渋さと華やかさのコンビネーションが作れるし、ありとあらゆる組み合わせで、いろんなことができるところが好きです。

---このWEBマガジンはCheer Up!といって、気持ちがアガるとか、元気が出るとか、そういう意味を込めて名付けたんですけど、インタビューでは「あなたのCheer Up!ミュージックを教えてください」って質問をしているんですね。宮嶋さんのCheer Up!ミュージック、今回はビッグバンドではどんなバンドか、どんな曲がお好きか伺えますか?


宮嶋:私にとっては、身近過ぎますけど、ずっと一緒に仕事してきたヴァンガード・ジャズ・オーケストラです。ニューヨークの名門オーケストラで、55周年になったかと思うんですけど、55年存在しているということだけでも凄いなと思うんですよね。創設者のサド・ジョーンズさんっていうトランぺッター・作曲家の曲で大好きなのが何曲もあるんですが特に「Central Park North」って曲を聴くと元気が出ますね!ファンクの部分がすごくかっこよくて踊れる曲です。

セントラルパークノースっていうのは、NYの地名で、私の住んでいるところからは歩いて10分ぐらいで行けるんです。
ちなみに私の家を出てちょっと歩くとすぐデューク・エリントン通りなんですよ。
ここに引っ越してきた時は異常に興奮しちゃって、ジャズの聖地だ!!って(笑)。

---インタビューも終盤に入り、今後の展望や夢について伺えますか?

宮嶋:次にやりたいことのアイディアはいくつかあって、本を書きたいと思っているんです。

私、一番幼い時の記憶が3歳で。その記憶が、私の両親がお庭でバーベキューパーティーをしてて、みんな椅子に座ってるのに立ってる人が2人ぐらいいたんですよ。
私は「あの人たちも座ったほうがいいよね」って思って、庭にあったすのこをズルズルと引きずって、その人たちに「ハイ、どうぞ!」ってあげたんです。
そうしたら、大人の人たちが「みぎわちゃんは3歳なのに、座ってない人がいるから座らせてあげようって思いつくなんてすごいね!」って褒めてくれて。それが一番小さい時の記憶なんですけど、その時から多分本質が全然変わってなくて。特殊能力みたいなのがあって、例えば部屋で5,6人で会議しているようなときに、その中に何か不幸せそうな人がいるとすごい気になっちゃうんですよ。
誰がハッピーで誰がハッピーじゃないかにすぐ気が付き、ハッピーじゃない人の状態が気になっちゃって。なんとかその6人全員でハッピーに会議を終わらせられないものか?っていうのをあれこれ頑張ってやってしまう、っていう性格なんですよ。
だからお笑い芸人にも向いてたかもしれない。ここにいる人たちみんなを笑わせようと才能を使うこともできたかもしれないし、他のことに使えたかもしれないんですけど、私は今ビッグバンドっていう集団の音楽をやっててそれを皆さんの前で披露して、っていうときはこの能力を使えていると思えて、嬉しいんですね。
「全員幸せになるためにはどういう力配分で何をどうやってやったら最終的にみんなお家に帰るまでに幸せになった!と思って帰れるのかしら?」ってのを考えたり実行するのが一番得意なことだと思ってるんです。
このことをずっと手を替え品を替えやってきて、今に至っていて。今回3月31日にリリースする作品も、聞いてくださる方がそれでちょっとでも前向きな気持ちを取り戻すきっかけになれば、っていうのが目的です。
コロナでこの後どうなるかって、結局わからないじゃないですか。だから、フレキシブルな自分でいようかなと思ってて。
自分が身構えてしまうとパッと動けなくなっちゃうから。

ちょっとゆるっと肩の力を抜いて、自分の気持ちに正直に、「私らしくいる」に集中しておけば多分「あのプロジェクト次にやった方がいい!今はあそこで私の力が必要だから!」っていうのが目に入るようになるし、目に入った瞬間にスピードダッシュ出来ると思うんです。
蓄えたりいろんなものを練習したり、新しい知識を得たり、次々やっていくことで、備えておこう今は思っていて、そうしていれば来年以降の自分の動きが決まってくるかなかなと思ってるんですけど。

ジャズミュージシャンとしてニューヨークで暮らしているわたしは「日本人はもうちょっとアドリブで生きることを覚えてもいいんじゃないか?」とちょっと思っているので、それを本に書いたら良いんじゃないかなって。

---わぁ、それは読みたいです!

宮嶋:ぎっちりギチギチ生きようとするときつい時代だし、コロナがあると余計無理ですよね。未来がわかんない。
未来が分かんなくても、アドリブ力さえ付けておけば、何が起きてもアドリブで対応すればいいだけで、ちょっと気が楽になるんですよね。
世の中そういうのが必要だなって感じているので。私が持っている能力の中で次に世の中に捧げるべきなのは、この能力かなと。編集をやっていたし本のこともわかるから。3月に先ほどのブックとシングルをリリースしたら、4月から9月までの間は本を書こうと思っていて。その後10月から12月はアルバム作ろうかなと思ってるんです。

---素晴らしい!

宮嶋:これで2021年、ビッチリ使い終わるでしょ。
それが終わったら、私はいま46歳ですけど、50歳になるまであと四年しかないんですよね。
50ってやっぱりすごい数だから、50で大きい仕事をしたら面白いだろうなと思っていて。
いろいろ考えたんですけど、「あ!母に恩返ししてあげよう」と思って。
母の人生と私の人生を繋いで、そこでどんなドラマがあったかっていうのを一個のストーリーにするようなアルバムを作ってあげようかな?って思ったんです。
それを私の誕生日に母にプレゼントする、っていう計画にしたらどうかな?と思って。

---お母様、どんなに喜ぶでしょうね。

宮嶋:母は第二次世界大戦のすぐ後に生まれてすごい混乱の時代だったから、自分次第で自分の夢を全部叶えることができなかった世代なんですよね。すごくたくさん困難があって。
三人の娘を産んでくれて、私の下に妹が二人いるんですけど、私たち娘三人それぞれ母が持ってた三つの夢を全員が叶えたんです。
それって凄くないですか?
母は本当は音楽でアメリカに留学したかったんですよ。それを私が叶えて。
あと、自分の理想だと思う幼稚園を作りたかったんですよ。それは真ん中の妹が作ってて。
一番下の妹はすごく温かい家庭を今築いているんです。それも母がやりたいことだったから、母の三つの夢を娘たちが全部やってる。そういうのを、私が生まれて50年ということとセットでやりたいと思っています。

日本って、特に子育てで他の事が出来なくなって落ち込んでいる女性がすごく多いですよね。うちの母は三浦綾子さんの秘書をしてましたけど、結婚したら引退して専業主婦になりました。そういう人の人生をフィーチャーするということで、「普通のひと」だとみんなが思っている人が実はどれだけひとつの人生の中に美しい話を持ってるか?っていうことに、光が当たるきっかけになったらいいかなと思っています。

---もう、お話を聞いているだけでワクワクします。

宮嶋:楽しいですよね!50歳までは楽しいプランがあって、嬉しいです。

---Cheer Up!でも、その楽しいことをちょくちょくご紹介させて頂きたいです。本日は楽しいお話、貴重なお話をたくさん伺えて幸せな時間でした。どうもありがとうございました。

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◆宮嶋みぎわ プロフィール

宮嶋みぎわの音楽は、自身の多彩な道のりを映し出すかのようにカラフルで、聴く人の心を瞬時につかむ。

茨城県生まれ、上智大学文学部教育学科を卒業後、(株)リクルートにて住宅広告制作、ITエンジニア、旅行雑誌編集者、デスクを経験ののち、2004年30歳で音楽家に転身、音楽大学に行かず独学でプロの道へ進む。

プロ転身5年目にして、米国NYで51年の歴史を持つThe Vanguard Jazz Orchestraに見出され、同バンド日本ツアーを2009年より毎年プロデュース、2011年・2014年には副プロデューサーとしてグラミー賞ノミネートを経験している。2018年自己の創作活動に集中するため同バンドから引退。

2012年9月、文化庁新進芸術家海外研修制度・研修員として米国NYに移住。現在は自らの楽曲を演奏するビッグバンドMiggy Augmented Orchestraを率いるほか、世界的なサックス奏者Steve Wilsonなど他アーティストへの楽曲提供も行う。脱サラで夢を仕事にした体験を話す講演や、ジャズ普及のための講演、音楽教育にも熱心に取りくみ、特に日・米・世界各地での音楽教育普及活動に積極的に取り組んでいる。

2017年7月、NYの老舗ジャズクラブBirdlandに巨匠秋吉敏子以来14年ぶりの日本人女性ビッグバンドリーダーとして初登場、満員公演で業界を驚かせる。2018年NYの名門レーベルArtistShareに日本人作曲家として初参加、デビューアルバム「Colorful」を同レーベルより発表。同年NEAジャズマスター(米国のジャズの人間国宝のような賞)であるSlide Hampton率いるSlide Hampton Big Bandの指揮者と副プロデューサーを担当。2019年、新進芸術家に贈られるジェロームヒル・アーティストの一期生に音楽ジャンル唯一のアジア人として選出、2020年には米国ニューヨーク市が女性芸術家の優秀な芸術作品に贈る「NYC Women’s Fund For Media, Music and Theatre」に選出された。


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ノンジャンル音楽WEBマガジンCheer Up!編集長をしています。 http://www.cheerup777.com/