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小説 恋は罪悪ですか?

 誰かを愛することと憎むことは似ている。その人の事ばかり考えてはため息をつく。そのどうしようもなさ。
 その想いを募らせながら、降りやまない雪のように高さを増し、いずれはその重みに負けて、圧死する。
 大げさだと思う。けれど、僕がした初恋はそういうものだった。恋なんて甘い響きなんて似合わない。もっと絞殺されるような苦しさと血が混じる。
 大学の講義を組み、ようやく新しい生活も落ち着いてきた頃にゼミで出会った少女、蝉平 透――。息さえできないで、目を見開くしかなかった。彼女という人間はまるで、黒い獣。
純白さえ輝きを失くしてしまうほどに、視線を奪われる一点の黒い美しい獣。こんな人みたことがない。
黒に着せられた長く美しい髪、全てを毛嫌いしているかのような酷く尖った瞳。その瞳は誰にも服従しない気高さがにじみ出ている。
気品がある? いや、そんなものじゃない。彼女は世界でただ一人の孤高の美貌を持つ美しき黒の獣。
醜美に無頓着な僕が、一瞬にして目を奪われるほどに彼女は野生的な美を持っていた。
けれど、不意に不格好な足に目が行く。彼女の片足の黒い義足――。彼女には片足がなかったのだ。
足がすくむ、指先が震える。彼女の人とは思えないほどの美しさに。まるで自分とは違う生き物だ。気高く、美しく、恐ろしい。自分と同じ色をした血液が流れているとさえ信じられないような違和感と混乱。
恐怖さえ感じる美しさを持つ彼女の周囲には誰もいなかった。一人、神のような存在として遠巻きから見られる孤独感。
 瞬時に二つの言葉が浮かぶ。怖い、かわいそう。
そして心に浮かんだ下衆な考え。障害者というハンデを背負うことで手に届きそうだという、喜びと蔑み。
 僕は泣きそうだった。自分の心の醜さに。
 
「君の絵を出展してみないか?」
 絵画教室の先生にそう言われたのは、ようやく梅雨が明けた夏の始まりの日。空が嫌になるほど澄んでいて高く感じる昼間のことだった。
「僕はまだ初心者ですし、大して上手くもないのに――教室の恥になりませんか?」
 小心者とでもいうのだろうか、口が上手くなくてそのままの言葉で聞くしかなかった。こういう言い方はよくないのだろうとわかっていても、オブラートに包むことができない。
「恥なんて! 逆だよ。確かに君の絵の技術はまだまだだ。けれど人を惹きつける。魅力があるんだよ! 展覧会に出展してみるといい。きっと世界が広がるから」
 優しくお節介な先生は嬉しそうに微笑んだけど、僕は困ってしまってオウム返しするみたいに言葉を繰り返した。
「世界が、広がる?」
「そう。なんでもいいんだよ。君はその感性を磨きなさい。人に見てもらうことや、人と関わることで学べることはいくらでもある。君は内向的で自分の世界に閉じこもりがちだ。それは誰にも邪魔されない純粋で穢れがない美しさがあるだろう。きっとそれが絵に反映されて美しいものが描けるのかもしれないけれど、でもね――」
 先生は振り返り、窓際に飾ってある蝉平の絵を見て残念そうにこういった。
「この少女の絵は、あんまりだ。君の独りよがりな欲望が詰まってる。一歩も踏み出せない君の優しくて美しいだけの世界が描かれているんだよ」
 言い返す言葉もなかった。独りよがりなのはわかっていたはずなのに、その時僕が感じたのは身勝手な自分へのどうしようもない恥だった。頬が赤くなって頭が真っ白になった。
 そんな自分を見透かされるのが嫌で、言い訳みたいに言った。
「先生……、恋は身勝手で独りよがりなものでしょ?」
 口をついたのは、そんないやらしい言葉だった。だから正当化できる? そんなわけもないのに、恥で傷ついた心を何とかごまかしたくて、先生に問うたのだ。
「蜂谷くん……」
そう僕の名前を呼んだ先生の目、忘れもしない。僕をかわいそうなものを見る目でみたんだ。僕は急に息ができなくなり、その目から感じる感情が怖くて震えた。
窒息しそうな閉塞感を感じながら、額の汗をぬぐうこともできずに立ち尽くしていると、風が吹いた。
初夏を感じさせる生ぬるい風。青葉が風に揺れ、木の葉がざわめいた瞬間、緊張が解けたようにやっと息ができた。
僕の弱い声は蝉の鳴き声でかき消されるかもしれないと思ったけど、その場にいるのが嫌で逃げ出したくて無理にでも声を絞り出すほかなかった。
「……帰ります」
先生は少し目をそらして、少女の絵をみた。つられて僕も見る。
僕の技術じゃ、到底描ききれないような美しく優しい妄想、蝉平透。僕だけの愛しい人。
頬を染めるほど恋い焦がれた妄想を憐れまれて僕は余計に硬直するほかなかったのだ。教室は気まずい雰囲気になり、僕はなんとか展覧会に出ないこと告げると足早にその場を去った。
彼女に抱いた気持ちは恋にしては甘くなく、もっとドロドロと心を汚し、自分を真っ黒に染めて、何もかもを吸い込んでしまうブラックホールのようで。
怖くてそれでも求めることしかできないで、それがたまらなく惨めで恥で。
ごめんなさいと、本当なら彼女に謝りたい。こんな汚い妄想で君を汚してごめんなさいと。
きっと口にしなければ、誰にも聞こえないだろうその言葉を僕は心の中で何度も繰り返した。日に日に増すのは彼女への罪悪感と、胸に痛く苦く残る欲望。
 彼女との幸せな日々を妄想することでは飽き足らず、ついには彼女との情事までを妄想するようになっていった。
 男なら当たり前だとも思う。けれど、ひどく僕はそのことに対してみすぼらしさを感じたし、惨めだった。それなのにやめられないのが、滑稽で恥でもあった。
 彼女に触れたい気持ちが日に日に増大し、もう僕の頭はひどく醜い妄想だけで黒く染まる。
 妄想の彼女に呟いた「愛してるよ」は、なぜか見知った愛の言葉ではなく、ただもう毒に犯された人間が苦しさのあまりに口にするような「殺してくれ」にとてもよく似ていた。
 苦しさのあまりに口にするしかない。愛おしさは痛みだと脳が伝えてくる。妄想するほかないのだ。
 この苦しいだけの恋愛を終わらせるには、本当の彼女に僕を傷つけてもらうほかないと。
 気づいた時には、僕は気持ちが変わってあの彼女の絵を展覧会に出展することを決めていた。

「展覧会、一度お断りしておいてなんなんですが、やっぱり出たいです。お願いします」
 先生は相変わらず優しげな顔で笑ってくれた。
「君ならそういってくれると思った。楽しみにしてる」
 僕は頭を深々と下げた。小太りの先生は絵画の先生というよりは、料理教室の先生みたいだといつも思う。それでも彼の技術は確かなもので、僕は僕なりの趣味ができればいいとだけ思っていたのに、いつの間にか展覧会に出展するまでに僕の技術をひっぱりあげてくれたことには頭が上がらない。
 きっと他の先生じゃ、こうはならなかっただろう。先生にはかなわない――。
「それで、君は何に恋心を抱いているんだい?」
ふいにそんなことを問われたものだから、僕は口ごもってしまった。
「なに、好奇心で聞いているだけだよ。なにせ君のこの少女の絵、僕は嫌いで仕方がない。前にも言ったけど、君の独りよがりな恋心が詰まっている。蜂谷くんは、恋は罪悪ですよって知ってるかい?」
セリフは知っている。けれど――。
「夏目漱石のこころですよね? セリフだけは知っているんですが」
 先生はにっこり笑ってこういった。
「一度読んでみるといい。君の作品に雰囲気が似ているから。僕はあの作品嫌いなんだけれど、何度も読み返してしまうんだ。だからかな? 君の恋に興味があってね」
 先生は優しい。僕が蝉平透に抱いた想いを恋じゃないとわかっていながら、恋だと想いたい僕を立ててくれているから。
 恋だと思いたいのは、執着しているから。届かないと理解しながら、本当は現実の彼女も望んでいるから。けれど――妄想の彼女がいつの間にか、かけがえのない存在になってしまったのも事実で。
 僕は先生にしか、本音をこぼさない。この先生には自然と本音を引き出してしまう不思議な力がある。
 感情的なのに、それでいて落ち着いている感覚が不思議でたまらない。
「妄想を……しているだけなんです。きれいな人が悲しい目をしていたから」
 先生は僕にコーヒーを差し出してくれた。
「うん! それなら君も大人の仲間入りだね。それはね、誰しもあることだよ。僕だって妻と付き合う前はよく知りもしないのに、妄想をしていたものだよ。彼女はどんなふうに笑って、どんなことを話すのかな? なんてね。でも僕と君が違うのは――」
 そういって先生は、僕にミルクいるかい? とミルクを差し出してから、ポケットにいれていたキャラメルを口に入れた。
「妄想が優しすぎて、本物に触れたくない、そう思ってるところかな?」
 そういって先生は口をもぐもぐと動かし続けた。何故こうも見透かされてしまうのかと顔を赤くして、俯いた。
「乾先生はなんでそんなに僕の事わかるんですか?」
 先生は鼻歌を歌うように笑うとこういった。
「君より人生長く生きてるからね」

蝉平透は大学で同じゼミをとっている。文学部の泉鏡花のゼミだ。
一番泉鏡花の天守物語が好きであったためとったゼミで彼女と知り合った。
彼女とは隣の席で、というか、いつもわざと彼女の隣に座っている。
周りには彼女と距離を置きたがる人ばかりで、自分も人の輪に進んで入っていけるたちではないので、必然的にそうなったといっても過言ではない。
僕はいつも彼女の隣に座ってドキドキしている。お互いが近寄りがたい雰囲気を出しているから、話したことは一度だってない。それでも僕は幸せで――。
でも、彼女が隣にいると、妄想と現実がわからなくなってしまうことがある。
優しくほほ笑まれたことすらないのに、彼女が笑ってくれるのではと思ったり、なれなれしく触れてしまいそうになったり。
こんな僕が惨めで恥ずかしくて泣きそうになる。
ゼミが終わってから僕は蝉平に話しかけた。
「蝉平、土曜ひま?」
 彼女に話しかけたのは初めてなのに、ちっとも緊張しなかった。ただ妄想の彼女と本当の彼女が重なっていく感覚がして、いつものように僕は話しかけたのだ。
「暇だけど……」
「木下美術館ってあるだろ? あそこで僕の描いた絵画が展示されるんだ」
「うん……」
蝉平は少し俯いて髪をさらりと耳にかけた。その様子でさえ生唾を飲むほどに美しくて、神々しかった。――違う。彼女は僕の妄想とは違う。
人間らしさがないのだ、現実の彼女には。
「見に来てほしいんだ……」
 言葉はあっさりと出た。意外なほどに。
「どうして私が見に行かないといけないの?」
 ――言うと思った。僕だってそうだ。なんで貴重な時間をつぶしてまで他人の絵なんか見に行かなくてはいけないんだと反発さえ感じるだろう。
「……僕の絵を見て、君がなんていうか興味がある」
 緊張のあまり、変な言い方をしてしまった。立ち止まった僕たちを他の生徒たちがちらちらと伺っている。
「別に何も言わないよ。じゃ……」
 彼女はそういうと、重そうなトートバッグに肩にかけて足早に立ち去ろうとした。
「嫌ってほしいんだ!」
 思わず出た言葉に動揺した。あまりにも直球すぎて意味がわからない。僕は狼狽して顔をただ赤く染めることしかできなかった。涙が出そうだ。
 嫌ってほしいといったのは事実なのに、彼女で妄想できなくなるのが、僕の愛した都合のいい彼女がいなくなるのが、こんなにも悲しいなんて。
 愛してるよと思わず出そうになった。苦し紛れにすがるようなそんな言葉なんか気持ち悪いだけなのに。
 身勝手すぎて惨めすぎて、自分があまりにも気持ち悪くて。
「……嫌わないよ。嫌う理由がないのに嫌ったりしない」
 俯いていた顔を上げた瞬間、彼女と目があった。
彼女の目は心の中を覗こうとでもしているように、僕の醜さでさえ真摯に受け止めようとしてくれる誠実な目。
「ごめん……。嫌いって言ってほしいんだ」
絞り出した声がかすれる。さっきの夢のような時間が一瞬にして消え失せてしまったように。
「だから、嫌う理由もないの……に」
 あふれた涙を拭う気力もなかった。
 蝉平は目を見開いて、焦るように僕から一歩だけ離れた。
「……なんで、泣くの?」
 僕は答えられなかった。
「……どうして、嫌ってほしいの?」
「蝉平を傷つけることをしてしまったから。嫌われてさえしまえば、もう、蝉平を……傷つけずに済むだろ」
 僕はいつも偽るすべを持たない。本当のことをただ、そのままに述べるだけ。
 本当を言おうと思ったけど、何をどう伝えればいいかわからなくて、口ごもることしかできなかった。
「……見に行くよ、展覧会」
「えっ?」
蝉平は手帳を取り出し、いつ? と聞いた。
「あ、えっと、八月の……」
 しどろもどろになりながら、僕は自分の手帳を開いて日にちを告げ説明した。
「無料の展覧会だから」
 そういうと、蝉平は不思議そうな顔をして手帳に予定を書き込んだ。
「蜂谷と一緒に行くんだよね?」
「……」
 僕は一瞬、声が出なかった。それは一緒に行ってもいいという意味なんだろうか? 
「一緒じゃないの?」
「えっ、うん。一緒に行こう」
 本当なら、一緒にいくのは当たり前なんだろうけど、それを全く考えもしなかった自分にあきれてしまった。
 僕ははっきりとみることになるんだろう。蝉平へ届く僕の歪んだ幻想が叩き壊されるのを。考えるだけで、息が止まりそうになった……。

 展覧会の日、駅前で蝉平と待ち合わせをした。
 天気が穏やかな日でよかったと思った。天気がよければ足が痛まないから。深い傷を負うと気圧の変化でも痛むと聞いた。
 そんな日に蝉平を連れ出そうとでもいうものなら、僕は罪悪感でいたたまれなくなる。
 ふとそんな自分の感情が思いやりなのだろうかと疑った。それはきっと違う、思いやりではなく、距離感の問題なのだ。
 妄想の彼女とは距離が近い。けれど、本物とは? 
 現実がどれか区別がつかなくなる前に、僕は彼女を諦めなければならなかった。
 待ち合わせの時間より五分遅れて彼女は来た。紺のブラウスに白いレースの長めのスカートをはいていてデートにでも行く格好だ。
「今日は重そうな鞄じゃないんだね」
「だって蜂谷が今日はいるから、何かあっても助けてくれるでしょ?」
 彼女は少し、長い髪を指でいじりながら目線をそらして言った。それは照れ隠しなんだろうか? 僕は妄想の彼女と比べてしまい、不覚にも現実の彼女の方がかわいいと思ってしまった。
「いつも頼ればいいのに」
 そう笑った瞬間、彼女は驚いた顔をして少しだけ嬉しそうに笑った。
 黒い義足は彼女の重みのように感じる。彼女という存在の重さ、大切さ、愛おしさ。僕は可哀そうな彼女ではなく、照れ屋ではにかみ屋の彼女に触れたくなった。
「行こうか。僕の先生が待っているから」
 思いを打ち消すように、僕は彼女の歩幅に合わせて歩き出した。鼓動が早鐘のようにうるさくて気が狂いそうだった。
歩いている間、終始彼女はごきげんそうに笑っていて、まるで学校とは別人のようで本当はこれは僕の妄想なんじゃないかと疑った。
妄想にいつ取り込まれるかわからない。僕は現実よりも心の内側の方が幸せであることが悲しかった。
日差しは強くなるばかりで、少し彼女が気がかりだった。白すぎる肌はきっと焼けても赤くなるだけで、戻ってしまう体質なんだろう。
けれどこんなに強い直射日光は体に障るのではないか、そう思って僕は声をかけた。
「ちょっと寄り道しないか?」
「先生待ってるんじゃないの?」
 彼女は不思議そうに言った。けれど先ほどから彼女の足取りが重たくなってきていることに僕は気づいていたのだ。
「少しなら大丈夫。冷たいものでも飲もう。あそこに喫茶店があるから少し休憩しよう」
「……もしかして、気を使ってる?」
「僕が休みたいだけ」
 こういう時、本当に口の上手い人に憧れる。気を使わせずに休ませる言い訳なんか浮かばない。だから自分が休みたいだけだというしかないのだ。
 人と関わるためのマニュアル本なんかあれば、もっと上手くいくんだろうか?
 もっとこうありたいと思うのに、どうやってそこにたどり着けばいいかわからないで苦しむのを繰り返している。
「冷たいので大丈夫?」
「うん」
 僕は彼女とアイスコーヒーを頼んで、向かい合わせで席に座った。
「蜂谷は絵描くの好きなの?」
 そっとストローで氷いじり、目線は外したまま蝉平は僕に聞いた。
「まぁ」
「何を描いた絵なの?」
 ぎくりとした。今、言うのが怖かった。気味の悪い自分の内面を知られるのが本当は嫌だったのだ。
 でも、もうやめたいのだ。妄想の中の彼女を好くのも、妄想の中で彼女を汚すのも。
 覚悟を決めて唾を飲み込んだ。
「蝉平。君を描いてるんだ」
 蝉平と視線があう。お互い何も言わない、時計の針の音と周りのざわめきだけがそこにはあった。
 怖がりながらでも視線は外さない。頬に熱が集まってくるのがわかった。けれど、彼女と関われるのも目を合わせられるのが最後だと思うと、もったいなくて無理だった。――心を抑えるのが無理だった。
「……蝉平が好きだから、描いてるんだ」
 まっすぐ見つめる僕の目線が辛いのか、蝉平は目線をそらした。頬が少しずつ赤くなる。
「私と……付き合いたいの?」
 重苦しい空気の中、彼女がようやく口にしたのはそれだけだった。
「えっ?」
 正直な話、僕は嫌われるだけだと思っていたので意外な返答が返ってきたことに驚いてしまった。
「えっ、てなに? 普通、告白は相手と付き合うためにするものでしょ?」
 蝉平は少し怒っているように、僕の顔を睨むと少し微笑んだ。
「僕はきっと君に嫌われるだけかと思っていたんだ。だって君は本当に綺麗な人だから、僕とは不釣り合いで、許可もとらず絵を描いてることだって気持ち悪がられると思ってた」
 僕は正直に伝えるしかなかった。他になんて言っていいかわからなかったから。
「だって、好きな相手を形に残したい気持ちはよくわかるから。私だって恋した相手の写真とか欲しいと思うし」
「えっ?」
「えっ、てなに? 別に普通でしょ?」
 正直、蝉平はそういった人間的な部分がないと思っていた。妄想の蝉平ははにかみ屋で、僕だけに笑顔を見せてくれて、透き通るような声でよく笑っていたから。きっと本物は無口で何を考えているかわからなくて、きっと手の届かないような人なんだろうと、無意識に思い込んでいただけかもしれない。
 カランっとグラスに入った氷が溶ける。
 また重たい空気になった。
「みんな私の事どう思ってるかわからないけど、私だって好きな人ぐらいいるよ」
「誰?」
すかさず聞いた。怒っているような声だ。別に彼女とは付き合っているわけでもないのに。
怒る資格なんてないのに。
「いつも私の隣に座ってくれる人。いつも隣に座ってくれて、顔を真っ赤にしてて、それで、困った時、さりげなく助けてくれる人」
 全く見当がつかなかった。困ったときに助けてくれる……、そんな人が蝉平にはいたというのか……。
 悲しくなった。僕じゃないその人はきっと僕なんかより背も高くて、完璧な人間なんだろうと思うと、悲しくて涙が出た。
 男が泣くなんてみっともない。だから僕は僕が大嫌いなんだ。蝉平は少しだけ驚いているようだった。目を見開いてそっとハンカチを差し出した。
「なんで泣くの?」
「君の好きな人が憎いって言ったら、君は僕の事嫌うかな? わかってるのに、悔しくて憎い」
「蜂谷って案外バカなんだね……」
 微笑むその顔、細めたその目、全部大好きなのに。
 その時、初めて僕は妄想が好きだったんじゃないと気づいた。そうか、本当の君を想像するのが楽しかっただけなんだ――。
 びっくりしたと同時に、僕は蝉平にキスされた。
 目を見開くのに、声も出せなかった。息の仕方を忘れたようにその瞬間はカメラに収められた写真の一シーンのように時間が止まった。
 離れた瞬間、妄想の彼女と現実の彼女が重なった。蝉平が嬉しそうに微笑んだのだ。
 こんなにも簡単に涙が流れる。恐る恐る伸ばした手を掴んだのは彼女で、その瞬間、その場には僕ら二人しかいなくなっていたんだ。
「ねぇ、誰が好きかわかった?」
 思考が停止していたけど、なんとなくわかった。そういえば、僕は彼女の隣に座るのが癖になっていた。自然と彼女を助けたこともあったのかもしれない。
 そう考えると、僕は当てはまっていたのだ。
 彼女の好きな人に――。
 感動というよりもそれは衝撃に近かった。嘘を言われているみたいなのに、おそらくそれは真実で。衝撃のあとにやってきたのは、混乱で。
 どうしていいかわからない。妄想の中の僕なら喜んで彼女にふれただろう。
 優しく、それでいて大切なものを触るように。
 けれど、現実の僕は目を白黒させるだけでフリーズしたように頭の処理の速度が追い付かなかった。
「うん」
 やっと口にできたけど、これから先どうやって彼女に接すればいいのだろう?
 わからないけど、この場はおごらなくてはならないと思い、コーヒーを飲み終わると伝票を素早くとるとお会計を済ませた。
 外は暑いので、彼女の歩幅に合わせるようにして手を繋いだ。汗が手に滲んでいるのに、気にもせず、彼女と手を繋いでしまった。
 緊張のあまりカクカクと震える。
 たくさんのことを話したい。彼女のことは何一つ知らないことなどないほどに、たくさんのことを知りたい。
 日差しがどんどんと暑苦しくなる。きっとそれは日差しのせいだけじゃないのだろう。
 苦しいのは彼女との距離感。突然、奪われたその距離の詰め方がわからないのだ。
「蜂谷って、思ったより天然ジゴロなんだ」
 カクカクと不自然に震える僕を呆れてか、彼女が思ってもないことを言った。
「天然ジゴロってなに?」
 冷や汗でもう僕はべたべただ。
「天然で相手に気を持たすようなことを言うことの人の事」
「僕、そんなこと言ってないよ。言ったとするなら、本当に好きな君にだけだよ」
 彼女は白い目をして僕に言う。
「恥ずかしがり屋なのに、そういうこと他意もなく言っちゃうところがそうだって言ってるの」
 僕は困るしかない。困るしかないのに、困っている僕と怒っている彼女の距離感がおかしくて笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「ふふ、なんでだろ? なんか距離が近づけたみたいだからかも」
「だから、そういうところが……」
 彼女が怒ろうとしてふいに笑った。
「どうしたの?」
「蜂谷が笑うから、ちょっと嬉しくなって」
赤面するしかなかった。笑顔って不思議だ。人間に見える。綺麗な無表情より、なぜだろう。彼女には不格好な笑顔が似合う。
それが悲しいほどに嬉しかった。

展覧会に行くと、先生が嬉しそうに笑ってくれた。想いが通じ合ったことを喜んでくれた。けれど、僕は余計に僕の描いた絵を見せたくなくなった。
想いは綺麗なものばかりじゃない。もっとどす黒くて身勝手に汚れててうっそうとしているものだと、自分自身が信じてやまないのだ。
自分の汚さを妄想の彼女は愛してくれたし、受け入れてくれた。でも現実は? 受け入れてもらえないかもしれない。嫌うかもしれない。
「あのね、蜂谷」
 蝉平が美術館に入った途端、足を止めた。
「どうした?」
「あの先生、私のお父さんなの知ってた?」
 息が止まった。
「両親離婚しててね。でも、だから知ってるの。あんたが描いてた絵、見たことあるの」
 上手く息ができない。頭が真っ白でちゃんと立てているかすら判断がつかなかった。
 彼女が困惑する僕の顔をみて、薄気味悪く笑った。
怖さとともに強烈な愛情を感じた。彼女は僕の絵を見てなにを思ったか、瞬時にして理解したんだ。
「私ね、あの絵を見てあんたを一瞬で好きになったの。だって、私の事好きだって一生懸命伝えてくれるから、嬉しかった」
「軽蔑、しなかったの? 僕が君に対して性欲だって向けていたんだ。わかるだろ? 艶めかしく笑わせて、素肌を見せつける君を描いたんだ。春画だとか思わなかったの?」
「思わない」
「なんで!」
「……だって、嬉しかったから。それしか考えられなかったから。あんたがどんな人間かなんて知ってる。恥ずかしがり屋なのにちゃんと伝えてくれる。大切にしてくれる。気を使ってくれる。好きでいてくれる。それが私の見えてる全て。違うの?」
「……」
 僕はやっぱり彼女といると息が上手くできない。どう接していいかわからない。僕自身答えが出ないのに、彼女の気持ちにどうこたえていいかわからない。
「あんたが好き……。ふふ、なんで泣くの?」
 彼女は笑いながら言う。僕の欲望や身勝手さなんて気づきもしないくせに。
 きっと僕を純粋で優しい人だとしか思わないくせに、それを信じてやまないくせに。
「君をきれいに純粋に、愛せないからだよ」
「それでもいいよ」
 そう言って笑う彼女はとてもきれいだった。

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