鬼さんこちら(4)『天城越え』


 かつて紅白歌合戦といえば、演歌歌手たちは競い合うようにしてここ一番の着物姿を披露したものだが、今や羽織袴で蛍の光を歌う歌手もひとりもいなかったわねえ、と、残念がる人達だけはいまだに存在する。「石川さゆりも、こないだのはずいぶん地味だったわねえ、やっぱり自粛ムードのせいかしら」。

 渋い紺地に赤い花柄の紬をまとった石川さゆりが、めらめらと燃え上がる炎のなかで歌う姿は、なかなかシックで素敵だ、と私は思ったが、なぜ冬に牡丹なのか、と訝る声もあった。季節感を重んじる和服の文化ならではだが、実はこの衣裳は『鬼滅の刃』の“珠世”というキャラクターを意識した“コスチュームだ”という解釈が、ネット上ではささやかれている。なんといっても、今回の石川さゆりの演出は『鬼滅の刃』の音楽担当椎名豪氏だったことは十二月半ばには発表済だった。NHKが、石川さゆりを介してこっそり2020年いちばんの大ヒットである『鬼滅の刃』をもぐりこませたというのはさもありなんである。

 それにしても、去年一年だけで、どれくらい芸能人の不倫騒動があり、制裁だ活動停止だ、と、どれだけ叩かれたかわからないのに『天城越え』である。

 前奏はなしで、紅白でいきなりアカペラで始められるのは、さすがに石川さゆりくらいだよなあ、とも思ったが、カラオケでおなじみのあの前奏には、社員旅行の熱海の旅館でみんな揃いの浴衣で大合唱するようなイメージが、すでにまとわりついている。そして、そんな唄を、それでも“聴かせることができる”のは、ひとえに石川さゆりの歌唱力と、それを支える演出の工夫所以だろうと思われる。昔だったら、紅白が終わるや、即、新年会の余興で、似たような衣裳で天城越え歌っちゃう人とか、その後ろで緑と黒の市松模様の羽織にたすき掛けして炭治郎のマネをするお調子者もいただろうが、そういう『三四郎』のヒロインなら気を失いかねない“菊人形の俗臭”が、石川さゆり本人にはまるでないことにはいつも感心する。

 そう、『天城越え』が大ヒットした1980年代後半には、“恨んでも恨んでも体うらはら、あなた…”を未婚のOLがカラオケで歌おうが誰も何も言わないどころか拍手喝采だったのである。令和の御代にあって、しかし、石川さゆりはNHKの大河ドラマ『麒麟が来る』に、主人公光秀の母親役で出演していた。紅白出場は、だからまあ、順当だったにしても、母親役だからこそ、“誰かにとられるくらいならあなたを殺していいですか”なんて、あんな、能面で言えば鬼の面をかぶって出るような歌を歌っていいものか、という問題は残ったのではなかろうか。

 今年は「わるいものをやっつけて」という願いをこめて歌う、と、椎名豪とのコラボを発表した際、石川さゆりさん自身が言っていたそうだ。だが、“菊人形の俗臭”なしにじっくり聞いてしまうと、『天城越え』というのは、くらくら燃える地を這って、の、外道に堕ちた恋人たちの歌なのだ。そもそも「“隠しきれない残り香が”ってなあに?」と孫に聞かれたら、じいちゃんばあちゃんはなんと答えるのだろう。さすがに常識的には子どもは寝た後の時間帯での出場になっていたが、悪いのも天誅が下るのも本人達だろうと言うあの歌も、ああも何度も聞いていると、繰り返すが、だんだん麻痺して、やがてすっかり陳腐に聞こえてくるところはあるのだ。にもかかわらず、耳にすとんと歌詞が落ちるの石川さゆりの歌唱力で、あたかもパオロとフランチェスカのように抱き合ったまま黒い風に舞い上がり揺れ落ちる、地獄を漂う恋人たちを思わないわけにはいかないイメージがそこに展開する。

 地獄、煉獄…なんていうと「煉獄杏寿郎さん!」と目を輝かせる人の方が圧倒的に多い日本で、2021年はダンテの没後700年なんて、どうせどうでもいいことには違いないが、ウェルギリウスのラテン語詩だけを導きに、社会的に干されてしまったダンテが見た地獄には、うっぷん晴らしに彼の政敵もじゃんじゃんぶち込まれていた。しかし、そこには、不道徳のレッテルをはられたまま悲しくさすらう恋人たちの叫びもまた、こだましていたのである。恋は罪悪ですよ、よござんすか。ダンテはそれを深く哀れむ。

 医師でもあったダンテは、政権交代を繰り返す不穏なフィレンツェを、病に苦しむ女性に譬え、右に寝返りを打っても左に寝返りを打っても全身の痛みに悶えるばかりだ、と嘆いた。彼自身、政治的亡命を余儀なくされていた。祖国への愛ゆえに地獄を見た彼は、しかし、ベアトリーチェという実在の、ただし結ばれることはなかった女性への思慕一つで『神曲』を書いたのだった。自分の恋人は、だから、天堂の方にいるが、煉獄のパオロとフランチェスカの逸話は有名で、後世の詩人たちにインスピレーションを与え続けた。二人の罪は不倫だし、常識的にはそんな恋に走らなければ、二人とももっと幸せに暮らしたはずだったが、それはダンテに自分の政治的情熱を諦めろというのと同じだったのだろう。

 全ての希望を捨ててくぐるべき地獄の門の向こうに、その掟破りの恋人たちは放り込まれている。だが、詩人たちは二人を裁くことはない。全くもって、あなた方のなかで罪のない者だけが石を投げなさい、である。そうやってすぐ、自分のことは許してしまうくせに、と、『眺めのいい部屋』のルーシーは激怒するが、フィレンツェで出会った恋人たちは階級社会さえ乗り越えていく、というのが、たとえば、E.M.フォスターの解釈かなあとも思ったりもする。いずれにせよ、どうにか踏ん張って持ちこたえている社会秩序と、その外にはみ出てしまう人間の性とでもいうべきものと、もしその両方に思いをこらさないなら、七百年ももつような作品にはならないのである。

 さて、七百年には及ばないが、『天城越え』も、もうかれこれ40年近く歌われている。『鬼滅の刃』を下敷きにした演出の方に話を戻すと、珠世、というキャラクターは、鬼が人の心を取り戻した特異個体な上、医師でもあり、残り香かどうかはともかく、香りの遣い手だという。しかし、もちろん心正しく優しい鬼滅隊の協力者である。珠世のコスプレをすることで、かつては公衆道徳に反する歌詞にはなかなかうるさかった国営放送は、コロナ禍の年の自重の意を表したっていうのは深読みが過ぎるだろうか。

 それにしても『天城越え』というのは、少年ジャンプじゃまず扱わないような話にして、能面でいうなら、間違いなく鬼の面で演じられるだろう場面を歌っている。石川さゆりの声のもつ不思議な透明感ゆえに無事年越しはできたものの、すぐまた節分の豆撒きが必要なわけだなあ、とも思う。なるほど鬼は闇にしか生きられないが、人間の方も光のなかだけで生きているわけではない。

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