日本橋人形町のこと (1)スカーレット

 「誰かが風邪をひいたときにはね、向いの角の蕎麦屋から、熱々の鍋焼きうどんを取り寄せるの。勿論、そこの角から大急ぎで持ってくるンだけど、念には念を入れて、もう一度火にかけて、それから食べさせるんだ。そうすりゃ一発で治るって、おとっつぁんがね。」

 祖母の実家は日本橋の人形町でオーダーメイドの手ぬぐいを扱っていたのだそうだ。うちは染め物屋だ、と言われたこともあったが、詳しいことを知ったのは大人になってからだ。

 引越しや工事、お年賀には今でも手ぬぐいならぬタオルを配ることがある。ブリティッシュカウンシルにも近い神楽坂のお香屋さんでお年賀の縁起物を買うのが私の毎年の恒例になっているのだが、通り道の和食器屋さんの入口のワゴンに蚊帳布巾を見つけ、まとめ買いしたら、眼鏡ごしにこちらをチラリと見上げたおじいさんが「お年賀ですか?」と聞いてきた。そのとき、あ…と何とも言えない気持ちになった。

 その前年に私は祖母を亡くしていた。あんた、どうかしてるわ、手ぬぐいなんか、よそで買うもンじゃないわよ。祖母も母も、そう言いそうだった。でも、手土産のなかに蚊帳布巾をしのばせたら、あれはほんとうに助かった、と、たいそう喜んでくれた人にひとつ、と、はじめから熨斗紙のかかったのもレジまで持ってきてあったのだ。それで思い直し、明るい花柄のものに、熨斗紙をかけてもらった。店の奥からおばさんも出てきて、二人でテープのとめかたもたいそう丁寧な仕事をしてくれた。あれが神楽坂の心意気というものだろう。

 祖母の話ぶりからも、やはりお客さんは日本橋周辺の商家だったようだ。いちばん繁盛していた頃の大晦日には「取引先から、茹でたてでまだ湯気のあがっている、大人の腕ほどのイセエビが届けられて」、それに水引をかけ、ウラジロを束ねて、店の正面に飾ったというのが祖母の自慢だった。

 人形町というのは、江戸時代から歌舞伎や岡場所に隣接しているから、店にはいろんな人が出入りしていたようだ。手ぬぐいというのは、役者が公演の千秋楽で舞台からばらまいたり、芸者さんもご贔屓に配ったりする。とにかく“挨拶”というものが大事な人達からの需要があったのである。

 
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 人形町は、基本的には職人や商家が多い界隈だったが、戦後でさえ、母が子どもの頃祖母に手をひかれて遊びにいけば、大人たちが小声で「あそこの店の娘は器量よしでさ、明治座に出てたナントカっていう有名な役者のお妾になったんだよ」とささやくのを耳にするような界隈ではあったようだ。祖父などは、子どもの足でも十分歩けるはずの小学校まで、人力車で通っていた。それも、明け方、芸者遊びからの朝帰りの旦那衆を乗せた車が空で帰ってきたところを、祖父のばあやが呼び止めて小銭を握らせ、さあさ、と、ランドセルを背負った祖父が乗せてやり、浜町から日本橋小学校まで走らせたのだという。

 貞さん、貞さん、と小学校五年生までばあやがつききりで過保護に育ってきた本人は、しかし、いたってオクテで、高校のとき仲間と連れ立って、女給さんが隣に座ってくれるカフェーに行っても、うつむいてかたくなるばかりだったということを、その悪友達に生涯からかわれていたそうである。言葉遣いもめっぽう厳しい祖父の家に比べ、祖母の方は噂話もふくめてあけすけな話もよく知っていたらしいが、祖母の上の兄と商業学校の同級生だった祖父は、その縁で祖母を娶ったのだった。新婚旅行で、おずおずと祖父に「お風呂は、一緒に入るものだそうだよ」と言われ、「そんなこと知ってらい!」と心のなかで思ったものだ、という話を、なぜか母が知っていた。

 こんな話もある。祖母のすぐ下の妹というのは、とにかくたいへんな美人で、芳町の方からお客が来る度に「うちに来たら、すぐにいい旦那がつこうってものなのに」からかわれていたそうだ。それを曾祖父が「おあいにくさま、芸者にするために育てたわけじゃないよ」とぴしゃりと言っていた、と祖母はさも愉快そうに話した。だが、認知症独特の、昔の記憶ほどはっきりしている、という症状のなかで、「芸者にするために育てたわけじゃないよ」はやけに繰り返された話のひとつだった。この妹は、祖母と同じく府立一女の女学生だったが、しかし、体があまり丈夫ではなかったため、高校も中退し、結婚することもなく早逝することになった。

 母が、よく言っていたことだが、祖父母の実家は二度焼け出され、店を畳んで日本橋を離れざるを得なかった。祖母が生まれた頃はいちばん羽振りもよかったのだろうが、まず関東大震災で丸焼けになった。そこからどうにか立ち直った頃に、太平洋戦争が始まり、東京大空襲で再び灰燼に帰したのである。祖父の実家の方は、すでに祖父を勤め人にしていたが、祖母の方も、さすがにもう一度商売を始めることはできなかった。祖母も意地っ張り、見栄っ張りの難しい人だったが、曾祖父はその祖母が呆れるほど難しかったようだ。祖母の下の妹の葬儀までは、当時の番頭さんをしていたおじさんも来てくれていた。親戚ではなくて、番頭さんなのだ、と知ったのも、大人になってからだった。

 きちんと始末はつけるくらいの余力はあるうちに商売をやめた、というのが正確なところなのだろうと思うが、それでも生まれ育った日本橋を離れる、というのは祖母にとっては、文字通りのハイマートロース、故郷喪失であった。じじっ子ばばっ子だった私は、母も含めて「神田川の水で産湯をつかった」人達に、日本橋とのつながりをずいぶん意識させられてきたように思う。

 それは、いまと違い、人形町がごく小さなコミュニティだった頃の話でもある。それはいまから四十年くらい前、まだバブルのあの狂乱の地上げの前のことだが、父が人形町の寿司屋にふらっと入ってカウンターごしに板前さんに「うちの女房はこの辺りで生まれたんだ」と母の旧姓を告げると、店の奥からもおばちゃんや御隠居が出てきて「へええ、直子ちゃんの…」と感心されたそうだ。


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 その時分にはまだ長男家族だけかろうじて住んでいたか、一家でそこを引き払ったばかりという頃だったろう。とにかく、母の従妹達にとって、芳味亭なども近所の食堂に過ぎなかったのが、十年くらい前から、最近いつ行っても混んでるンだもん、とため息をつくような、別の街になってしまったらしい。祖母にとっても同様だった。両親と私とで、まだ歩けるうちに、と連れて行った時には、幼馴染の“つづら屋のみっちゃん”には会えたものの、うどん屋さんは経営者が変ったようで誰一人知っている人もいなかった。その上、トイレだけはまだ和式だったので、足のわるい祖母はたいそう不機嫌になってしまった。

 寒い日で、父は餅入りの力うどんをたいらげると、すぐ駐車場に向かったのだが、祖母は、斜向かいの自分の家のあった辺りは見たくもなさそうで、歩いていくのも面倒だ、とそっぽを向いた。それでも、去り際にはぼんやりと甘酒横丁から一本入った先の方を振りかえり、車に乗ってから「こんな町じゃなかった、もっとひなびた村だった」とつぶやいた。

 後継ぎの兄さんたちの後に生まれた祖母が、それでも御隠居だった彼女の祖父に特別に可愛がられたのは、ソロバンであっという間に兄さんたちを抜かしたこと以上に、手習いもよくし、筆で絵を描けば、これはすぐ手ぬぐいの図案になりそうだ、面白い絵だ、とほめそやすような才覚があったせいもあるようだ。習い事のなかでもいちばん好きだった華道については、全日本いけ花コンクールでは文部大臣賞をとったことがある人で、高祖父の甘やかしも、女孫可愛さの買いかぶりというわけでもなかっただろう。

 そうだとしても、母方には、娘はともかく、女孫だけが特権的に甘やかされる傾向が確かにあったと思う。母もそうやって育ってきたが、それは私自身もまた享受してきたものである。そして、そうでもなかったら、自分がこんなふうに、水天宮の辺りに片足置いて育ってきたような感覚を持つことも、またなかっただろうと思うのである。


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 だが、同時にそれがどういうことかと言えば、長女は何かをズシリと背負わされてもいるのである。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラの、これでもかという生意気な向こうっ気の強さ、何が何でも自分の実家を守りぬこうと躍起になる姿、そして使用人も妹達を容赦なくこきつかうさまを見るにつけ、つくづく呆気にとられるままに、「ほんとうにこれ、おばあちゃんそのものだよねえ」とよく母と言っていた。兄二人が早々に祖母に先立ったせいもあるが、法事であれやこれや仕切るのは祖母の役目だった。

 さらにスカーレットの人物造型は、父を婿扱いされて憤っていた、大正生まれの父の長姉にもよく通じるところがあった。小学校の音楽教師だった長姉だった伯母は、祖父に何かと頼りにされていたこともあり、実家のことを何かと気にかけて世話をやき、ひとり暮らしの祖父の住みこみの家政婦には「マッカーサー」とあだ名されていたが、大正生まれの長兄も含め男兄弟も含めてなあなあで決まっていることさえひっくり返すことがあった。父方はほんとうに田舎の旧家らしく、親戚で集まれば女は全員、台所でまかないで済ませ、御膳を男達に運ぶのを常としていたが、そこを取り仕切るのがその長姉であった。あれはあれで女子会っぽくて悲壮感もあまりなかったが、こちら側にマッカーサーがいたこともやはり大きいのではないかなあ、と思う。威厳もあれば、ほんとうによく働く人だった。

嫁としての母はこの小姑にはさんざん手厳しくやられたらしいが、でも負けていないので他のお嫁さん達にも一目おかれるに至ったが、私は見かけが父そっくりだったこともあれば、ふだんから母方の親戚のなかで大人にもまれて育っている要領のよさもあったのか、不思議とこの伯母の機嫌を損ねることがなかった。言うまでもなく、祖母とこの伯母は、弟の結婚式に至るまで火花を散らしあってきたが、おまえしか相手できないから、と父にこの伯母の隣席に座るよう指示されていた私は、宿敵同士の勝負がどうやら栗ケ島の方についたのを見てとって、面白いもんだな、とも思ったが、美味しいけど、全部は食べずにおくわ、と、銀座レカンのコース料理をしきりに私に分けてくれる叔母は、やはり胃がんが再発していて、甥が生まれる前には他界した。

祖母があの時、「あっちのお姉さんも来るんでしょ」と言って腰が痛いのに着ていた紋付きの訪問着は、銀座松屋のたとう紙に入っていた。紫にも焦茶にも見える渋い色あいだが裾の方にたくさん花が散らされていて、やはり髪がグレーになってから着るべきものだろうものだけれど、華やかだった。無理してでも、最後にまた着てもらってよかったわねえ、と一度広げて確かめた時、端が折れたまま畳まれていたのに気づいた。

 九人兄弟全員が揃った家族写真を見ると、小学校にあがったばかりの末弟と、そのすぐ上の弟である父は詰襟だが、叔母達は皆、振袖、祖母は留袖を着ていた。しかし、私が生まれる前に死んだ父方の祖母の箪笥のことはわからない。母が遺品の整理のなかからもらってきたのは、着物ではなく、小学校の教壇で、黒板のチョークから着物の袖を守る“うわっぱり”だった。それが大事にとってあったことに、私はむしろ母の祖母へのリスペクトも感じた。父もよく覚えている、という、ごわごわした化繊の、文字通りうわっぱりなのだが、色あいはペールブルーで少し光沢もあって、やはり祖母もまた大正のハイカラさんだったのではないか、と思われるようなモダンな雰囲気があった。そういえば、マッカーサー呼ばわりされた伯母も、保護者達から謝恩会にはハンドバッグをお贈りします、と言われて「私はフランス人形がいい!」と叫んだことがあるそうだ。最後は長兄を絶縁によって押しのけて実家を取り仕切るに至った女傑にしても、乙女心ってものは労わられるべきだよなあ、とも思うのである。

 それにしても、日本全国津々浦々、戦後の復興期には、そんなスカーレットが数多いたのではないだろうか。人形町の祖母によく手をひかれて歩いた上野公園でも、真っ白な包帯に巻かれた傷痍軍人がアコーディオン弾きと共にいるのを見かけることがよくあった。その度、私だって立ち直ったのに、いまだにあんなことしてるのはおかしいわよ、と突っぱねるように足早に通りすぎるのが祖母の常だった。だが、あの人達にお金を置くのは、やはり圧倒的に男性の方が多かったのではないかと思うのだ。いずれにせよ、そんな戦争の傷痕をなまなましく想像させるようなものも、いまや街角からすっかり消えてしまった。それこそ、風と共に。


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