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私が好きなものをただアツく語る

朝が好き。
新幹線が好き。
朝×新幹線はもう、言うまでもない。

朝。
空が白み始めて、眠りについていた黒空は目を覚ます。そして少しずつ色を取り戻していく。
太陽は地平線の奥深くでくすぶっていても、その存在感を地球上の全生物に知らしめる。
空は太陽がまた今日も現れることを察知して色づき始める。これがなんだか健気で愛おしく思える。

朝は静寂。
人間たちは寝静まり、世界から音が消える。
太陽と時を共にする生き物たちは、太陽が現れる前兆を感じ取ると、再び色を塗り始める空と同じように、彼らの生命もまた始動する。
私はここにいるよ!って、今ここに生きているんだってことを誰でもない誰かに示している感じもまた、愛おしい。

朝は原始的な地球を感じられるから大好きだ。

人間が嫌いなわけじゃない。でも人間は人間だけの世界を創りすぎてる。文句とかじゃなく、そう感じてしまうだけだ。地球上には人間以外の生物も同じように生きているというのに、まるでこの地球は人間のものだ!と言わんばかりに。

言うまでもなく素晴らしいものを創り上げているんだけれど。現に私は今列車という文明によって地球を駆け抜けている。そして人工物である新幹線への愛だって確かにある。
でもここは人間の星ではないことを忘れてはならないなと思う。

新幹線。
始発に乗る。ヌーの大移動のように、駅の中を騒がしく蠢くお盆人間大移動の中でも、富士山側の窓際を死守できるかと思って。
品川の方が近いけど、ここは東京駅まで行くことにしよう。富士山への執着がすごい。

無事に2人掛けの窓際にありつく。始発の車内は富士山側の窓際だけが埋まっている。なんだかみんな好きなものに寄っていく感じが子どもみたいで、本来の生物の姿みたいで、ちょっとほっこりする。
みんな日本の守り神が大好きなんだ。

こんなに速いスピードで移動する生き物は他にいるんだろうか。他の小さな生き物がこのスピードでもし移動できたとしても、その体は風圧に耐えきれなくなってボロボロと崩れはじめて、いつかは消えてなくなっちゃいそう。
人間の知性は、この世界にまた別次元のすごい世界を創っているみたいだ。

窓の外の景色が横から横へ常に流れていく。景色は言葉のない物語だ。

富士山はやはり群を抜いて存在感を露わにしている。カリスマ的日本の守り神はずっと窓枠に収まっていて、まるで動かない。
どこにも行かずずっとそこにいてくれるという確信的安心感に惚れ惚れする。

普段の生活では実感しにくい地球の存在を新幹線は贅沢に、大胆に、見せてくれる。
たぶん新幹線が好きなのはこれが理由なんだと思う。

理由はもう二つある。

一つは、思考が捗るからだと思う。
いろんな情報やトピックが複雑に絡みついてる頭の中。そんな中にどんどん追い討ちをかけるように侵入してくる情報。
普段の生活では、頭の中で大袈裟に絡まってる糸を解くのがなかなかできないから、それを解く作業ができるのが新幹線なんだ。私にとっては。

地球を眺めてると、どんどん解けていく。
考えたかったことで満ちてる海に潜り続けられる。
そしてポッと些細な気づきを得る。
まあつまりは、考えるのが好きなだけだ。

もう一つは、子どもの頃のワクワクした感覚の断片が、蘇るからだと思う。

昔から変わらない案内音声の声色。
駅到着時に流れるメロディ。
どの時間帯に乗っても、優しい朝日に照らされたような車内の照明。
どれをとってみても、過去の記憶が盲目的に蘇ってくるから、その時の幸福感にどうしても少し陶酔してしまう。

窓を眺めながら缶コーヒーを開ける。
温かいコーヒーが喉を通った瞬間、この香りはいつも鮮烈に、爆発的に、幸福感をもたらしてくれる。
完全に古典的動機付け。
たぶん私の中では、缶コーヒーと幸福は強固に結びついている。それは缶コーヒーを飲むタイミングが、目的地に想いを馳せてワクワクしながら乗る移動媒体の中、ってのが多いからだと思う。

降車駅に着いたことを知らせるメロディ。
ああ、もうこの幸福タイムが終わる。

着いてしまったという切なさと目的地に着くことの嬉しさが同時に存在している。
人の感情ってのは、相反するものが同時に存在することもできる、究極のパラドックスだ。

今度、田舎道を走る電車に乗り続ける旅でもしようかな。

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