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不登校時代の非常勤先生との交換ノート

ちょうど部屋の片付けをしていると、一冊の赤いノートが出てきました。

それは、交換ノート。
なんとも懐かしい響き。
この文字面から、平成感を感じます。

中学当時のとある先生との交換ノートです。

それをふと読み返してみると、大人になった今だから感じるものがありました。

ふれあい教室の先生との交換ノート

私は中学の頃、学校に行けませんでした。
クラスがとにかく怖くて、骨の髄から学校に行くことを拒んだわけです。
ザ登校拒否、とも言えます。

そんな私は、ふれあい教室という、学校の中にある不登校児童が通うための教室に通っていました。

そこには、非常勤講師の女性の先生がいました。
私の恩師です。
大人になればなるほど、子どもの頃の私にとっていかに必要な存在だったかを知るような、大恩師。
私の人生は、この人によって支えられたと言っても、全く過言ではありません。

私はそんな先生と、交換ノートをしていました。

今の学生もやってんのかな。やってるとしても、オンラインでやってんのかな。

なんて爆速な時代の変化に想いを馳せつつも、当時の紙のノートを開くと、

わー先生の字だなあ。どれだけ日が経っても馴染み深い書体だなあ。とか、
私の中学生時代の自体ってほんと子どもって感じの字だなあ。とか、
当時自分はこんなことを思ってたんだなあ。とか、
当時先生はこんな言葉をかけてくれてたんだなあ。とか。

いろんな感情があっちこっちから呼び起こされてきました。

そして、大人になってから、一つのものすごく大事なことに気づいたのです。

このノートは私の安全地帯だった

当時の私には、ミッション的なものがありまして。

そのミッションというのは、
「最終的に教室でみんなと同じように学校に行けるようになる」
ということでした。(令和の今でこそ、必ずしも学校に行かなくてもという考え方が浸透しつつありますが、平成の当時は、不登校とは常道を逸脱した矯正すべき問題と認識されていたと思います)

それに向けて、ふれあい教室ではいろんなリハビリ的なことをやっていました。
とある授業に出てみたり、やっぱ無理ってなったり、出られそうな学校行事に出てみたり。

なので、素直な不安・恐怖・言い訳とかを並べていたり、休みの日にやった楽しかったことを徒然なるままに書いてたり、いろんな話が書かれていました。
当時の私なりの語彙で、取り繕うことのないリアルな感情が言語化されていました。

それを読んで思ったのは、
私には、何か不安だと感じた時、そういう感情をそのまんま吐き出せる場所があったのだということ。

善悪や正誤の判断基準によって評価されない、ただそのまま受け止めてくれる場所。
この交換日記は、まさにそういう安全地帯の役割を果たしていたんだなと、今読んでいて感じたんです。

怖かった、とか、
一人ぼっちな感じがして辛い、とか、
みんなはこうなのに私はそうじゃないって思って悲しくなった、とか、
思春期という、多感で自我が揺れ動く激動の時期に、こういったセンシティブな気持ちをちゃんと吐き出せる場所があった。そのことは、当時は認識してなくとも、苦しい中でも救いだったように思います。

そして、なぜ私が素直に感情なり言い訳なりを、この恩師にはちゃんと曝け出せていたのか。
それはおそらく、かつての脆くて危うい私のエンドレス吐露に、真摯に丁寧に向き合ってくれていたからだと思いました。

会話トピック一つ一つを丁寧にキャッチボールしてくれる。そういう安心感が、安全地帯に感じられた理由なのかもしれません。

昔はその有難さを何も知りませんでした。
大人になってから初めて分かることもあるものですね。

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