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またたび日記5「また会う日まで」

 深夜、蒸し暑さでなかなか寝付けずにいると、毛布の中に何か入り込んでくるものがあった。ごそごそと動き回るそれにスマホの光を当てると、小麦色をした丸い物体が動いているのが分かった。
「ん……なんだ、もちさんか」僕が目をこすりながら言うと茶トラのもちは「にゃあ」と一声鳴いた。しばらく僕がもちの背中を撫でていると、今度は僕の腰に何かが飛び乗るのが分かった。光を当てると、闇の中に困り眉をした猫の顔がくっきりと浮かび上がった。
「おお、だいふくさん、どした?」だいふくは、僕の腰の上に座り込むと、先が丸みを帯びたしっぽをぺろぺろと舐め始めた。
「おい、このまま寝るつもりじゃないだろうな?」苦笑しながら僕が背中を撫でてやるとだいふくの丸い目が細くなっていくのが見えた。

――さて、どうしたものか?――

 普段ならゲージに入れて寝かせるところだ。だが、今日は別に入れなくて構わないだろうと思った。むしろ、今晩は一緒にいて欲しかった。
 
 もちも、だいふくも、明日いなくなってしまうのだから。


 もちとだいふくは元々実家の猫ではない。祖母の家で飼っていた猫だ。
 数週間前、妹と母が実家に連れて帰った。それは病気の治療のためだった。
 
 妹の話によると、祖母の家で見た二匹は明らかに衰弱していたそうだ。あばらは浮き出て、毛並みは悪く、妹を前に消え入るような声で鳴いていたらしい。妹が調べたところによると、二匹はげりをしていた。衰弱はおそらく、そのせいだった。母と妹が協議した結果二匹は動物病院が近い実家に一時的に引き取られることになった。
 実家にやってきた二匹を見た時、僕はとても不安になった。まるで大雨に打たれたあとのように震えていて、手足は小枝のように細く、生きているのが不思議なくらいだった。階段を一段一段ゆっくりよじ登るように上がっていく彼らを見て、落ちやしないかひやひやしたものだ。

 病院に連れていくと、胃腸をウィルスに侵されているらしいということが分かった。だが、それほどひどいものではなく、とりあえず薬を与えれば二週間ばかりで元気になるらしい。
 猫たちの看病は、大学生の妹と、就活で帰省して在宅時間の多い僕が任されることになった。
 それからは奮闘の日々だった。
 まず、食事の量が分からなかった。どれくらいあげればよいのか分からず、僕と妹は彼らが満足いくまで食べさせてしまった。そのせいで彼らの体調をますます悪化させた。
 彼らは薬を食べなかった。人間用の錠剤を適量に砕いたものを使用していたのだが、食後確認すると、ちょうど薬だけ皿のへりに残っていた。薬だけ差し出しても、彼らはプイと顔を背ける。薬にチャオチュールを塗っても咀嚼の段階で気づき吐き出す。僕と妹は頭を抱えた。ちょうどその頃、僕は就活が上手くいっておらず、それもあってノイローゼになりかけていた。早朝、柔らかい猫のうんちをスコップですくいながら、ああ僕は絶対子育ては向かない、と思った。

 いろいろ妹と話し合った結果、薬を粉末状に砕くことにした。そして粉となった薬をチャオチュールや固形の餌に混ぜて出した。早朝、僕と妹はのろのろと餌に向かっていく、もちとだいふくを固唾を飲んで見守っていた。すると、なんと彼らはちゃんと薬を食べてくれた。僕らは飛び跳ねて喜んだ。あれだけ嫌がっていた薬を一粒残らず、彼らは食べたのだ。綺麗になった皿、それを目にした途端、目頭が熱くなるのが分かった。そして今まで感じていた憂鬱が途端に吹き飛んだ気がした。僕は滲んでいく視界で猫たちを眺め続けた。

 それからもちとだいふくは、見違えるように元気になった。
 あれだけ浮き出ていたあばらも今では見えないし、階段だって僕なんかより何倍も速く上る。
 消え入りそうに鳴いていたはずなのに、今では甘えた鳴き声まで出せるようになった。それを聴くたび、僕は頬が緩んで、彼らを撫でてしまう。二匹を見ていて思うのは、「可愛いも正義」だってことだ。決して可愛いだけが正義ではないが、可愛い、それだけで生きるには十分すぎる理由になる。彼らは生きねばならない。そして幸せにならねばならない。

 いつの間にか、もちとだいふくは眠りについていた。もちは僕の胸の中で、だいふくは僕の背で。生きているものの暖かさと重さを僕は同時に感じた。それは僕が繋いだ命の、暖かさと重さだった。
「ありがとう」
 気づいたら口にしていた。お礼を言われるのはこっちのはずなのに。
 いや、そうじゃない。
 救ってもらったのは僕の方だ。
 就活が上手くいかない不安や孤独を癒してくれたのは、胸に空いた穴を塞いでくれたのは一緒に眠る彼らだ。価値がないと思えた自分に、価値を与えてくれたのも彼らだ。感謝はいくらしてもし足りない。


「元気でな」猫を起こさないよう、囁くように言った。「今度会ったら、うまい餌食わしてやるからさ」
 そのまま僕は猫たちと同じように瞼を閉じた。こんな満ち足りた気持ちで眠るのは久しぶりだった。頬を何かが伝うのを感じながら僕は眠った。
 

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