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知られざるチェチェン戦争が私たちに問いかけるもの

青山 正(市民平和基金・ピースネットニュース)

(2005年12月6日初稿、2022年8月27日加筆修正。<だいぶ前に執筆したものですが、現在のロシア軍のウクライナ侵攻の実態がよくわかると思います。>)

●チェチェンとテロ

皆さんはチェチェン戦争をご存知でしょうか。チェチェンと聞くと最初に「テロ」を思い浮かべるのではないでしょうか。それほどチェチェン問題は「テロ」との関連でしかマスコミは伝えてきませんでした。あたかもチェチェン人=テロリストであるような報道すらありました。大勢の子どもたちが犠牲となった、2004年のロシア連邦北オセチア共和国のベスランでの学校占拠事件は、まだ皆さんの記憶に新しいと思います。しかし、チェチェン人武装勢力が起こしたとされるこの事件の真相は、実はいまだに明らかにはされていません。

また2002年10月23日に起きた、チェチェン人武装集団によるロシア連邦のモスクワの劇場占拠事件は、衝撃的でした。約40人の覆面をしたチェチェン人武装集団がミュージカル「ノルド・オスト」を上演中であった劇場に押し入り、観客数百人を人質に立てこもって3日間にわたるろう城戦が行われました。女性を含む犯行グループの要求は、「チェチェン戦争終結とロシア軍撤退」でした。結局この要求は完全に無視され、ロシア軍の強行突入により犯行グループは全員射殺され、また強力な催涙ガスにより人質にも大勢の死者が出る最悪の結果となりました。そもそもロシアの首都モスクワの中心部にある劇場に、大勢の武装集団がいとも簡単に侵入できたことに大きな疑問があります。
 
 ともあれ、この事件以降ロシア軍はチェチェンでの攻撃を強め、またチェチェンの隣国イングーシなどの難民キャンプやモスクワなどでのチェチェン人に対する強制捜査や不当拘束を拡大してきました。それに反発するチェチェン人側は、さらに爆弾テロなどに走り、チェチェン戦争は一層混迷を深めることになりました。

ロシア連邦南部の北カフカス地方に位置するチェチェン共和国では、1994年12月に独立を認めないロシアが軍事侵攻して以来、戦争が続いてきました。途中2年あまりの停戦はありましたが、この11年間に岩手県くらいの広さのチェチェン共和国では、人口わずか百万人ほどの内20万人近い犠牲者が出たと言われています。実に人口の2割近い市民が殺されているという、戦争というよりはまさに民族ジェノサイドにも等しい事態が続いているにもかかわらず、「テロ」事件以外あまり報道もなく国際的な関心も薄いままでした。

「すでにチェチェン戦争は終結した」とロシア政府は宣伝しているものの、実際には散発的に戦闘は続き、いまだに多くの難民が周辺の国々や遠くヨーロッパ諸国へ逃げ延びています。チェチェン国内に残された人々にはロシア軍と傀儡政権側の警察部隊による不当な拘束や、収容所でのすさまじい拷問・殺傷が相次いでいます。殺された肉親の遺体を引き取るためにも遺族が賄賂を払わざるを得ないという、信じがたい人権侵害が続いています。

●チェチェン戦争との出会い

このチェチェン戦争問題に私は10年近く関わってきました。この問題と私の出会いについて少し触れたいと思います。1991年の湾岸戦争での反戦運動、そして翌年のPKO法案をめぐる自衛隊の海外派兵反対運動に積極的に関わってきた私は、その後平和を創り出す運動の必要性を痛感していました。そういう中で1994年12月にチェチェンの独立を阻止するためにロシア軍が戦車部隊を中心に侵攻を始めましたが、国境線上ではそれをチェチェンの女性たちが人間の鎖で食い止めようとしていました。そしてそれはあっさりと突破され戦争が始まりました。そのことが日本でも本当に小さい記事でしたが報道され、それを私は読みながらも何もできない自分にいらだっていました。

その翌年の4月にチェチェンのサマシキ村でロシア軍の特殊部隊による住民虐殺事件が起きました。当時ロシアで反戦行動を行っていた日本山妙法寺の寺沢潤世さんがその現場を訪れ、そして直後に日本に戻った際にその痛ましい事件を報告されました。それを聞いて私は、チェチェン戦争の始まりを無視してしまっことが、結果としてこのような事態を招いたことを後悔しました。そして、この事件をきっかけに戦争の根本的な解決を探り、平和を創り出すために新たなNGOとして「市民平和基金」を立ち上げ、それ以来チェチェン問題に関わるようになりました。

結局、大国ロシアは膨大な兵士と軍事力を投入しながらも、兵士の士気不足と増えるロシア軍の犠牲者に対するロシア内での批判の世論の高まりの中、人口わずか百万弱の小国チェチェン側の反転攻勢により、ロシア軍は敗退を続けました。そして1996年秋には停戦に応じざるをえなくなりました。こうして第一次チェチェン戦争は終結を迎えましたが、今後5年以内に独立問題を検討するというあいまいな解決が、次の混乱を引き起こしました。

●第1次戦争の原因とチェチェンの人々の寛大さ

そもそもチェチェン戦争が起こった原因ですが、ひとつにはチェチェン周辺を通る石油パイプラインの存在があります。そういう経済的な側面もありますが、それ以上にチェチェンの独立を許せば、ソ連邦解体で弱体化したロシア連邦がさらに周辺共和国の独立の誘発につながりかねないと言事がありました。それを防ぐとともに、政治的にも経済的にも崩壊状態にあったロシア社会のいわば内部引き締めのための標的として、当時のエリツィン政権がチェチェン戦争を始めたと思います。特にチェチェンは帝政ロシア時代から激しくロシアの支配に抵抗してきた歴史を持ち、相互に不信感と憎悪の念を抱いていたことが、ロシア側からすれば標的にしやすかったと言えます。約300年に渡るロシアとチェチェンの不幸な歴史に第1次チェチェン戦争はさらに大きな傷跡を残しました。

チェチェン人は残虐だというイメージがロシアではさかんに撒き散らされていますが、この第1次チェチェン戦争で特筆すべきは、チェチェンの人々の勇猛さだけではなく、他者への寛大さでした。チェチェン人は敬虔なイスラム信徒でありながら、寛容さも持ち、他宗教の者でも客人は手厚くもてなす習慣がありました。

戦争が始まりロシア軍は、当初多くの地方出身の若い青年を徴兵し、次々とチェチェンの戦場に送りこみました。大して訓練もされていない若いロシア兵たちの前には侵略者を撃退しようとする悲壮な決意のチェチェン人戦闘員が猛攻撃をかけ、逃げようとすると後ろにはロシア軍の連邦軍や特殊部隊が控えて敗走を阻止するため銃撃を加えてくるという状況で、多くの若いロシア兵たちは無残に殺され、傷ついていきました。ロシア軍は規律もなく腐敗と暴力が支配する集団でした。武器を横流ししてチェチェン側に売って自らの懐に入れたり、若い兵士への虐待も日常茶飯事でした。当然占領下のチェチェン人に対しても残虐な扱いが横行し、不当な拘束や拷問あるいは、住民虐殺事件が頻発しました。

そうした中で徴兵された自分の息子の安否を心配するロシア兵士の母親たちが、チェチェンの国境へ次々やってきました。そのロシアの母親たちに救いの手を差し伸べたのが、チェチェンの人たちでした。彼女らを宿泊させ、乏しい食事を分け与え、そして若いロシア兵の死体や捕虜を一緒に探し出し、捕虜となった息子と再開できた場合には母親と一緒に逃がしてやったのです。例え敵側であろうとも、自らに救いを求めてきた者には寛大にもてなすというチェチェンの伝統が息づいていました。

世界の戦争・紛争の歴史の中でこのような例が他にあったでしょうか。これだけ見てもチェチェン人=残虐という図式は過ちだとわかると思います。こうした経緯から当時はロシアの兵士の母親とチェチェンの女性たちとの平和を願う連帯があり、だからこそ私たちが日本に招いた平和キャンペーンでは、ロシアとチェチェンの女性二人が手を携えて戦争の終結と平和をアピールしたのでした。

●苛烈な第2次チェチェン戦争
 1997年1月にチェチェンでは総選挙と大統領選挙が行われました。これは市民平和基金も含む各国の選挙監視団の下、民主的な投票により正当に行われ、そして比較的穏健なマスハドフ政権がスタートしました。これで本格的な独立に向けチェチェンは順調に歩むかと思われましたが、その後復興の遅れによる経済の停滞、そして戦後の混乱に乗じたイスラム過激派の跋扈とロシア政府による妨害工作活動などにより、チェチェン社会は治安も悪化し次第に混迷を深めていきました。

1999年8月にまずチェチェンの隣国ダゲスタンにチェチェンの過激派の武装勢力が侵攻するという事件が起きました。これはロシアから不当に扱われているイスラムの同胞を救うためということでしたが、ロシアからの挑発説などもあり、どうして無謀な事件を起こしたのか謎となっています。ともあれこれが第2次チェチェン戦争の端緒を作りました。ロシア内にはチェチェン武装勢力を叩けという声が高まってきました。それに続いて起きたのが9月のモスクワでの連続アパート爆破事件でした。犯人が捕まらない内からチェチェン人犯人説がロシア政府より発表され、これで一気にロシアの世論はチェチェン攻撃に傾きました。この事件についてもロシア政府内務省軍や情報機関FSBの関与などが当時からうわさされており、戦争を始めるための口実作りの陰謀説がロシア内でもささやかれています。とにかく圧倒的な「チェチェン憎し」の声が高まっていきました。

こうして1999年9月に第2次チェチェン戦争が始まりました。これを指揮したのが当時のエリツィン大統領の下で首相となったばかりのプーチン氏でした。当初は武装勢力の拠点を叩くだけの限定的な攻撃とされながら、まずチェチェン全土への無差別とも言える空爆が行われ、そして地上軍の侵攻が始まりました。第1次戦争の失敗からロシア軍は徹底的な空爆に加え、当初から軍の中枢部隊や特殊部隊中心の編成で一気にチェチェン領内を支配化に置きました。チェチェン側の抵抗部隊は山岳部に追いやられ、ロシアの圧倒的な攻勢が続きました。その中でエリツィン大統領は退陣を表明し、プーチン政権が2000年3月にスタートしました。

プーチン大統領の強行姿勢の下で、第2次戦争では第1次戦争を上回る市民の犠牲者を出し、またすさまじい人権侵害が繰り返されました。しかし、このチェチェン戦争に対する国際世論は第1次戦争と比べても低く、特に2001年9月11日の米国での同時多発テロ事件以降は、チェチェン人はあたかも全てがテロリストであり、チェチェンを攻撃するロシア軍の行為が正当であるかのような報道がなされています。米国もそれまではチェチェンでの人権侵害について言及していたのが、9.11以降は一切批判をやめ、それどころかロシアこそ反テロの闘いの先頭に立っていると賞賛するありさまでした。

これまで市民平和基金は難民への支援やロシア・チェチェンのNGO代表を招いての平和キャンペーン、チェチェンの大統領選挙での選挙監視へのボランティア派遣などを行ってきました。なかなか報道はされないチェチェン戦争ですが、それでも2004年にはチェチェン戦争に関連する書籍が日本でも5冊続けて出版されるなど、少しずつ関心が高まりつつあります。そうした流れを受けて、2005年からチェチェン問題に関わる個人や団体が集まり「チェチェン連絡会議」というネットワークを作り、チェチェンの平和を訴える活動を行っています。10月末にはロシア人のジャーナリストで数少ないチェチェン戦争の真実を報道し続けてきたアンドレイ・バビーツキさんを日本に招き、チェチェンで何が起こっているのか、そして戦争の影でロシア社会がどう変わってきたのかを報告してもらいました。

この間のチェチェン戦争を口実として、ロシアではプーチン大統領の強権的な政治が続きました。テレビメディアを中心とした言論への統制が進み、また野党勢力を支えてきた新興財閥の解体などを通して実質的に議会を支配する中で、地方の首長の大統領による任命制や、かつてのKGBを超えるといわれる情報機関FSBの権限肥大化が進み、ソ連時代を思わせる独裁的な強権政治が復活しました。むしろそのためにこそ、チェチェン戦争が必要であったと言えるかもしれません。実は相次ぐ「テロ」事件も中にはロシアの情報機関の関与が疑われるものもあります。

今世界各国で「反テロ」を掛け声として、基本的人権や思想表現の自由を否定しかねない動きが広まっています。この日本も例外ではありません。有事法制が整備され、自衛隊の海外派兵も恒常化しようとしています。そして9月の総選挙ではロシア並みの巨大与党が出現しました。そういう中でチェチェン戦争という極めてマイナーで日本から遠い地域で起こっている問題を通して、私たちは今の世界が直面している現実を見ることができます。そしてだからこそチェチェンの人々が願う平和への思いと、ロシアの市民、そして日本の市民を含む世界の人々が求める平和と民主主義の実現への思いが、つながりあうものがあるように思います。

今チェチェンの人々は残念ながら自らの力だけでは到底平和を実現しえない困難な状況に置かれています。それだけにチェチェン戦争の平和解決を求める国際的な世論が必要です。私たちの無関心が戦争を長引かせ、そして悲惨な「テロ」を生み出している現実があります。チェチェンに平和を!の声をぜひ世界に広げましょう。そこにこそ私たちの未来も共にあるのだと確信しながら。

(写真は2000年3月 チェチェン現地報告集会。写真右端のロシア人でロシア正教の信徒であり、チェチェンでの人道支援活動を行っていたビクトル・ポプコフさんは、翌2001年4月にチェチェン内で医療活動をしている最中に何者かに銃撃を受け重態となり、翌月亡くなってしまいました。)

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