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年森瑛『N/A』感想

 

冷めた日常の中にある痛み

 我々は無意識のうちに他者を属性に押し込めてしまっている。押し込められた者は属性の中に存在が封じ込められる。それを意識した時、痛みが伴う。そんな感情を推しへの崇拝からLGBTへと絡めて描いた年森瑛の『N/A』は、ひりつくような空間描写も相まって辛辣な物語となっている。

 松井まどかは食べることを拒み、体重は四十キロ弱をキープしていた。生理も来なくなった彼女は内に秘めたモヤモヤの言語化を探すようにインターネットで検索している。母親が自分のことを「拒食症」だと疑っていることも知っている。冷めた彼女の日常を象徴するように学校の空間が次のように語る。

金切り声を上げて扉が開いた。数年後に建て替えが決まっている高等部の校舎は、どこもかしこも乾ききっていて、油が足りない。

p6より引用

 彼女はクラスの中で「松井様」と呼ばれており、ある種崇拝されている。そんな彼女を「松井様」と呼ばないのは、あまり話したことない人か翼沙ぐらいだった。翼沙は推し活に励んでおり、ツイッターに居場所を見つけている。まどかには「うみちゃん」という先輩がいる。まどかの孤独を癒すような存在であったが、翼沙による眼差しにより様子がおかしくなっていく。

 学校、SNS、心理的葛藤といった最近の小説でよくみるタイプの組み合わせの作品ながら慧眼ともいえる社会に対する鋭い眼差し、その守備範囲の広沙と、それらを抽象化していく鮮やかさに驚かされる。

「カテゴライズ」の有害さ

 家庭において、まどかは「女性はこうあるべき」といった像を押し付けられている。それに対して彼女は、

祖母の光線を浴びたそばから、まどかは自分の身体が離れていくような気がした。

p42より引用

と語っている。彼女個人の存在は祖母の言動から離れてしまい、「女性」という属性に押し込められてしまっているのだ。このような状況は、推しを崇拝することで個人が見えなくなったり、「LGBTの人」と雑に括られたりすることとも共通する。

 人は、何かを話す時に、複雑さを簡潔に表現するため「カテゴライズ」する。それは個人を存在から見放すことではないのか?と本書では指摘しているのだ。それが如実に現れる鋭利な表現がある。

 まどかもこの中の一人になった。踏み出したら輪っかの形が崩れてしまうから、この属性から出てはいけない。やさしく手をつないでくれた人をがっかりさせないように、黙って笑顔で収まっている。
 本当はどんな属性もふさわしくないのに。
 まどかは、何者でもないのに。

p67~68より引用

Not Applicable(該当なし)な存在への渇望

 何者かになろうと渇望する物語は数多くあれども、他者から与えられる「何者」を拒絶しようと渇望する物語は新鮮だ。確かに、「何者」でもないことは属性にふさわしい振る舞いから逃れることであり、それ即ち他者からの眼差しのゲームから降りることでもある。そして、その難しさを物語っている。そうです、Not Applicable(該当なし)な存在になろうとする渇望を描くからタイトルが『N/A』なのである。

 この作品は、終盤にYouTubeのスーパーチャットのように降り注がれるバレンタインデーのチョコを通じて属性に押し込められる様、それが可視化されることで強化されるグロテスクさを描く。この抽象化に「あぁ!」その手があったかと感銘受けたのであった。


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