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「チェンソーマン」第1部公安編の感想

こんにちは、チェ・ブンブンです。

藤本タツキ「チェンソーマン」のアニメがもうそろそろ放送される。以前、漫画は1巻読んだのだが、露悪的な性的描写が苦手でリタイアしてしまったのですが、アニメ化に伴い第1部公安編を読破した。

確かに露悪的描写が強烈である一方、映画で観たいような構図のオンパレードで映画好きにはたまらない作品であった。また、本作では様々な悪魔や魔人、デビルハンターが登場するするのだが、これらの根底に流れるロジックが強固なものとなっており、感銘を受けた。

漫画の感想はあまり書かないのだが、今回はnoteにて感想を書いていく。

映画的構図の妙

本作では、セリフに「クソな映画なんて無くなってしまえ」といった暴力的なものが飛び出してくる。こういった言及には否定的な立場を取っており、この言及をすること自体、自分の首を絞めるものだと思っているのだが、藤本タツキの場合、画の造りが極めて映画的であり、しかもそれがあまり実写の映画で観ないタイプの構図だから困ったものである。天才ってこういうことなんだなと思わずにはいられない。

例えば、ビルの特定のフロアに閉じ込められた特異4課に、ドンドン巨大化し、フロアを圧迫していく悪魔が現れる。狭い廊下でのバトルの中、重力が変化する場面がある。明らかに『インセプション』を意識した場面であるが、「チェンソーマン」では、廊下を縦にすることで垂直空間を生み出し、廊下全域を使ったアクションを展開している。

また、車を走らせていると、鎖が飛び出し、壁に激突する場面では、車内から逃げようとする人を、車のサイドガラスから複数の銃を持った手が割って入り、射殺する構図が描かれている。銃の悪魔の、冷たく、不気味にもたらされる死を1コマで表現する。これは実写映画でありそうで中々観ないシーンだったりする。

藤本タツキは映画好きであるのだが、映画を単に引用するのではなく、自分だったら次のように撮ると絵コンテを魅せてくる。クエンティン・タランティーノが映画を引用しつつ自分色に染めることを漫画でやってのけているのだ。

だから、夢中にならざる得ない。特に、第1部では垂直と水平のアクションにこだわっているイメージがあり、ゾンビのように沸き立つ操り人間がビルに押し寄せてくる後半以降の展開では、地上でのアクションとビル内でのアクションを並行して描き、「落とす」、「駆け上がる」といったアクションで持って2つの空間を結んでいく演出の切れ味が素晴らしかった。

悪魔とは何か?

現代人は何と闘っているのか?

その答えを「悪魔」を通じて語っている作品のように見えた。政治において、人を引き摺りおろすだけでは平和は訪れないことはよく知られている。構造が人々を不幸にしているのが真実であり、その構造を変えることがあまりに困難で人々は苦悩している。

「チェンソーマン」の登場人物は基本的に、何度か蘇生する。殺しても殺しても蘇る。これは概念の具現化と言えるのではないだろうか?本作において支配の悪魔が最強な存在として現れる。殺しても殺しても蘇生し、デンジを苦しめる。銃の悪魔も、特定のひとりというよりかは群衆が襲い掛かるイメージとして描かれている。

銃は遠距離武器であり、支配は概念的なものである。人間の肉体から離れていく暴力だ。それに対してデンジは、他者を直接傷つけてしまうチェーンソーを身につけた男である。直接的な痛みでもって敵対する構造を破壊しようとする様は、我々社会における政治活動に近いものがある。実際に、作中では様々な悪魔が登場し、自分の信念で敵対する悪魔や魔人を殺そうとする。殺されても、概念的存在だから復活する。つまり、これはイデオロギーが具現化して闘っている姿を映した作品なのではないだろうか。

このように考えたときに、支配の悪魔の外側で操っている最強最悪な悪魔の存在がチラつく。それは「数の悪魔」である。本作に登場する悪魔の多くは、物量で制圧するか、無に返すことで勝利を収めようとする。日本の政治を見れば、カルト教会が信者という物量で政界をコントロールしようとしている。これは作中におけるゾンビに近い不気味さがある。また、経済においても円安やコロナ感染者数といった数字が人々を不安の底に陥れている。ブロガーやYouTuberならPVや再生回数、フォロワー数に一喜一憂することであろう。

数を前に絶望する現代人を反映するかのように「チェンソーマン」では「数」を使った絶望が描かれる。マルティン・ハイデッガーが「技術への問い」の中で、自然からエネルギーを抽出し蓄える運動がやがて人間にまで適用され、支配者は人間を存在から見放してしまうと言及していた。人間が個人ではなく数としてみられる。そして数に置換されたことでエネルギーとなった人間は、構造の中で使い捨てられてしまう。そういったものとの闘いが「チェンソーマン」の本質といえよう。そして、露悪的な性描写は、人間が存在から引き剥がされてしまう世界の中で、肉体的運動を追い求めることで人間が人間であろうとする様を象徴させているのではないだろうか。

「数」の観点から分析した際に興味深いのは、悪魔への対抗として無限ループによるオーバーフローを狙ったアクションがよく取られることだ。プログラミングみたいだなと思うアクションではあるが、考えてみれば敵対する対象が人ではなく概念なので、システム化された概念で太刀打ちしないと勝てないのは当然である。

さて、アニメ版ではどのようにこれらを描写されるのか楽しみである。


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