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アニー・エルノー『事件』感想

 12/2(金)にヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作『あのこと』が公開される。原作は、先日ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノー。彼女は自分の身に起きたことをフィクションに落とし込んで自己分析するタイプの小説家らしい。せっかくなので、原作を読んでみた。

■精神的ノイズが肉体的ノイズになる時

 1963年、中絶が違法だった頃、望まぬ妊娠をしてしまった「わたし」のトラウマともいえる中絶経験について赤裸々に綴られる。回想としての綴りに幾つかの階層が設けられているのが特徴的だ。地の文、カッコ書きで語られる当時の気持ち、注釈で追記される、調べて分かった情報を並べることで、とっ散らかった部屋の中から自分の大切な気持ちを掘り起こすような作風となっている。実際に、次のような描写がその要素を強調しているといえる。

ある晩、夢を見た。自分の中絶に関して書き上げた本を手に持っているのだけれど、それは書店のどこにも見あたらず、どのカタログにも載っていない。表紙カバーの下のほうに、大きな活字で"絶版"と記されている。その夢の意味が、その本を書かねばならないということなのか、書いても無駄だということなのかはわからなかった。

p103~104より引用

 この場面からは、生々しく凄惨な「あのこと」を言語化しようにも、「あのこと」自体は鮮明に覚えているにもかかわらず、言語化してよいのかといった迷いが見受けられる。彼女は、補足に補足を付け加えることで、その迷いを払拭しようとしていると考えることができる。

 異なるテイストの文章によるコラージュは精神的ノイズが肉体的ノイズとなって痛みを伴う様を生々しく物語る。彼女は序盤、サルトルの「出口なし」の演劇を鑑賞する。しかし、「生理がこない」という精神的ノイズが彼女を鑑賞から遠ざけてしまう。

これが、後半になると『戦艦ポチョムキン』を観ている際に痛みが彼女を襲う。肉体的ノイズが彼女を鑑賞から遠ざけてしまうのだ。この対比表現に背筋が凍った。

■法律の冷たさは対話を拒絶する

 中絶が違法だった頃のフランスでは以下の者に対して懲役や罰金が科されていた。

  1. 中絶処置を施した者

  2. 中絶処置を指示または幇助ほうじょした者

  3. 自らの身体に中絶処置を施した者

  4. 中絶、避妊を推奨した者

 「わたし」は違法とはいえ、少しばかり中絶処置の交渉ができたり、闇ルートを紹介してもらえると期待しN医師に電話する。

"このままでの状態でいたくない"こと、もうボロボロになってしまったことを話す。それは嘘だったけれど、とにかく、中絶するためなら何でもする覚悟でいるのを知ってもらいたかった。N医師は、すぐに診療所に来なさい、と言った。きっと、何か処置をしてくれるのではないか。医者は重々しい顔つきで、黙ってわたしを迎えた。検査が終わると、すべて順調です、と言い放った。私は泣きだした。

p136より引用

 法律によって中絶、避妊を推奨しただけで懲役や罰金が科される。そのため、N医者は「わたし」との駆け引きに一切応じず、淡々と「すべて順調です」と検査結果を返した。法律に従う者による冷たい態度によって押し潰されていく感情がここで緻密に描かれている。

■"天使製造者"を探して

 「わたし」は中絶するために"天使製造者"と呼ばれる人を探し、やがてマダムP・Rと出会う。影なる存在であり、活字になったところで"絶版"となってしまいそうな状況を彼女は具体的なイメージで語られる。

(人生のその出来事を一枚の絵で表現しなくてはならないとしたら、合成樹脂でコーディングした小さなテーブルが壁際に置かれ、そこに載った琺瑯ほうろう引きの洗面器に赤いゾンデが浮いているところを描くだろう。そのすぐ右側には、ヘアブラシ。世界中のどの美術館にも、〈天使製造者の仕事場〉という作品は存在しないと思う)。

p169より引用

 「わたし」にとって人生の行く末を決める決定的出来事であるにもかかわらず、違法故、歴史からなかったことにされてしまう状況を美術館に該当の絵がない状況で表現しようとする。ここで提示される作品〈天使製造者の仕事場〉のディティールは非常に細かく、脳裏に浮かぶものとなっている。アニー・エルノーの豊かで血が滲むような感性が最も現れた表現である。

■映画化されるとどうなるのか?

 フランスの哲学者ポール・リクールはRéflexion faite(遂行された反省)の冒頭で、自伝とは何かについて日記と比較しながら論じている。日記はありのままを書いているものに対して、自伝は人生にある様々な事象を整理して再構築したものである。そのため、物語に偏りがある。その特性ゆえに、自伝は文学だと語っている。

 アニー・エルノーの場合、自伝をフィクションとして再構築している。再構築するにあたり、新ラルース百科事典や『シェルブールの雨傘』などを引用しつつ、回想の中にも階層を設けることで複雑な心理を立体的に描写しようとした。読み手は、その質感の違いを脳裏でイメージしながらアニー・エルノーの過去を構築していく。小説は、読み手がカメラマンとなり、提示されるものに対して脳裏で構図を決めていくものである。一方、映画の場合は作品が用意した構図を受け入れる必要がある。そのため、本作の手触りを維持したまま映画化することは困難に思える。

 しかし監督のオドレイ・ディワンの次回作が『エマニエル夫人』だと知った時、これは杞憂であるだろうと思った。『エマニエル夫人』はエロ映画の代名詞となってしまったが、本来は『Swallow スワロウ』のような、奥の存在として追いやられる妻の心理的痛みを描いた作品のはずだ。今度のリメイクは恐らく、エロ映画として消費された『エマニエル夫人』から本質を取り戻す話になっているに違いない。そうだとすれば、『あのこと』は原作読了後に観ても問題ないレベルの作品に仕上がっているといえる。劇場で観ることを楽しみにしつつ、アニー・エルノーの『嫉妬』を読みながら首を長くして待つことにしよう。


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