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デンマークポルノ映画史の始まりと終焉

こんばんわ、チェ・ブンブンです。以前、ブログにアップしていたのですが、エロ映画について書くなとGoogleに怒られてしまったのでこちらにて語ろうと思います。文化研究として非常に重要な記事だと思っています。

ブンブン、大学時代かなり尖っていたので、卒業論文のテーマに《1970 年代デンマークポルノ映画がドグマ 95 に与えた影響》というニッチすぎるテーマを選びました。元々、ラース・フォン・トリアー監督作が好きで、大学に入るや否やデンマーク映画で卒論を書くぞ!と意気込み、そしてこのテーマに行き着きました。社会人になり読み返してみると、論文としては冗長で幼稚な気がしてならないのですが、周りの映画ブロガーやライターが知らないような情報がたくさん詰まっている原石となっており、これをブログの隅っこにPDFとして置いておくのは勿体無いと感じ、今回一部抜粋して紹介します(note用に若干校正入れています)。

もし気に入ったら、『チェ・ブンブンのティーマ』自己紹介ページに貼ってあるリンクからPDFをダウンロードしてください。無料です。

・デンマークの映画検閲

1969 年のデンマークポルノ解禁の理由から、当時のデンマークポルノ事情、世界各国の規制レベルとの比較、そして 1980 年以降次第に規模が縮小されていったデンマークポルノ映画史の終焉について述べる。

デンマークでは 1913 年から映画検閲が政府機関で行われており、1922 年にはシネマ法が制定された。そして、1933 年に犯罪映画とエロチズム映画に対する検閲強化がされており、1969 年に解禁されるまで、映画館で上映する作品はセクシャリティな描写を描けない状況が続いていた。

しかしながら、1969 年以前に全くポルノ映画が作られなかった訳ではない。『素顔のポルノ映画』著者である山田宏一によると、デンマークだけではなく世界的に、ポルノ映画は作られナイトクラブ等の風俗店で密かに上映されていたとのこと。そして、その多くはストーリー性が薄く、性描写も弱かったとのこと。

実際、1965 にデンマークで製作された『わたしは女』と同監督シリーズ 3 作目にあたる『新わたしは女』を比較すると、前者は性交シーンを役者の顔にクローズアップし、男女が性交する様子を全体的に魅せることはなかった。しかしながら、後者では解禁後に製作されたこともあり、冒頭から裸の女性のダンスを入れ、性交シーンもカメラは距離を取り全体的に魅せている。演出がより露骨になっている。

・デンマークでポルノ映画が解禁

このように 1969 年以前のデンマークでは、アンダーグラウンドで、しかもソフトなポルノしか作られなかったのだが、3 つの理由から 1969 年にデンマークのポルノ映画製作が解禁となる。

1.デンマーク映画産業の凋落

一つ目は、デンマーク国内の映画産業が凋落したことにある。

DFI によると、第二次世界大戦後、デンマークでは娯楽映画を大量生産するが、1955 年頃から国内でテレビが普及したことで映画産業は打撃を受けた。1954 年の 6000 万チケット販売をピークに、販売数は下降し、1960 年には 4400 万チケット販売と約 27%も下落した。当時の映画産業は国が統括を行っていたこともあり、斜陽に陥ったデンマーク映画産業を、改革する必要があった。

2.ポルノ映画の世界的流行

二つ目は、欧米各地でポルノ映画が流行していたことにある。

1950 年代アメリカではインディーズ映画界でヌード・ヴァーグという動きがあった。1938 年から 1968 年までプロダクション・コード(ヘイズ・コード)が制定されており、映画の性・暴力描写が自主規制されていたのだが、プロダクション・コードの影響を受けない独立プロダクションでは、ラス・メイヤー監督を中心に 『ファスター・プッシーキャット ! キ ル ! キ ル !』、『ワイルド・パーティー』等のソフトポルノが大量生産され、ヌード・ヴァーグと呼ばれていた。正式には、アメリカは 1969 年にスウェーデン産『私は好奇心の強い女』の輸入上映が許可となり、1972 年の『ディープ・スロート』の公開で完全に解禁となった。

小 松 弘 に よ る と ス ウ ェ ー デ ン で は 1950 年 代 か ら 『 春 の 悶 え 』や『不良少女モニカ』などといったポルノ映画が製作されスウェーデン国内だけでなく海外に輸出、日本でも公開されていた。さらに、西ドイツでも 1960 年代後半からポルノ映画の国際展開が始まり日本でもヒットした。つまり、欧米を中心にポルノ映画を生産し、国際展開することで利益増大を図るビジネスモデルが確立されていたと言える。

3.デンマークでわいせつ文書が解禁

三つ目は 1967 年にわいせつ文書が解禁されたことである。『性と法律 性表現の自由と限界』の「デンマークにおけるわいせつ文書の解禁(宮澤浩一著)」によると、

「第二三四条では『わいせつな文書、図画または物件を公刊しまたは頒布しもしくはこの目的のために製造しまたは輸入した』者は、罰金、拘留、また加重事情の場合には、六ヶ月以下の軽懲役に処せられるという文言がなされていた(第一項第二号)。『十八歳未満の少年に、わいせつ文書、図画、または物件を提供し、または譲渡した者』にも同じ刑が科されていた(第一項第一号)」

とのこと。

1964 年に『ファニー・ヒル』のデンマーク語訳出版に関して、わいせつ性を巡る裁判が勃発したものの三度の審級でわいせつ性は否認された。このことをきっかけにポルノグラフィーに関する見解が刑法審議会で討議された。1965 年、法廷医師部は「成人の衝動方向が読書や映画で変えられうるということを考えることは出来ないであろう。」との見解を発表。

同様に心理学者や社会学研究所からもポルノグラフィーが精神的な害を与える危険性は大きくないと結論づけ、1967 年 6 月 9 日に改正された。この時、ポルノ映画は適用外となっていたが、後のポルノ映画解禁の根拠ともなった。かくして、デンマークは 1969 年にポルノ映画の生産を解禁した。そして国際競争下でデンマークポルノ映画は成長していった。他国と違って、デンマークのポルノ解禁はハードコアも含むものであった。

山田宏一の『素顔のポルノ映画』によると、

「スウェーデンは本場らしく、セックス描写はすべて OK。しかし検閲機関はちゃんとあって、すべての映画が検閲を受けることになっている。つまりセックスはすべて良いが暴力にはうるさく、日本でも大ヒットしたブルース・リーの『燃えよドラゴン』やサム・ペキンパー監督の『ガルシアの首』などが上映中止、という面白い現象を見せている。」

とのこと。

・官能小説からポルノ映画へ

また『DANSK PORN/DANISH PORN』に掲載されているモーテン・シングの研究によると、デンマークのポルノ映画はポルノ雑誌同様、強烈なヴィジュアルで観客に売り込むことで一気に地位を確立。そして当時の性ビジネスのスタイルを変えた。具体的に、1970 年代に官能小説が街から姿を消したのである。人々はポルノマガジンやポルノ映画の視覚的「セックス描写」に身を投じるようになったが故、官能小説のニーズが失われたからだ。また、デンマークポルノ映画は性的補助の役割を担っており、セックス・ショップでは一人で映画を鑑賞できる小部屋が設置されたとのこと。

・デンマークポルノ映画の衰退に関する考察

では、何故 1990 年代以降デンマークポルノは消滅したのだろうか。原因は 2 つあると考えられる。

1.デンマークの映画製作方針の変更

一つ目はデンマークの映画産業における方針が変更されたからだ。

DFI によると、1980 年代にデンマークはポルノからアート映画路線へと方向転換したとのこと。理由として映画の製作本数が壊滅的に減ってしまったことにある。1982 年には年間 7 本しか映画が製作されなかったとのこと。

この事態を受け、政府は若者や映画制作者に対し資金援助をする指針を出し、1982 年には資金の 25%を援助。1989 年には 50%もの資金を援助した。デンマーク紙映画評論家モルテン・ピールによると、この補助金制度には下記のような特殊な方法が採用されていたとのこと。

「補助金の半分強は三人の映画コンサルタントの意見に基づいて配分された。三人は委員会を結成したりせず、各プロジェクトについて監督や脚本家、プロデューサーと密接なコンタクトをとったうえで各自が芸術的な観点から判断を下した。これによって、委員会方式では却下されかねない革新的な作品を援助することが可能になった。」

つまり、3 人の映画コンサルト全会一致で補助金支給の有無を決める訳ではなく、3 人の意見を総合的に判断して支給額を決めたのである。実際にラース・フォン・トリアー監督はスウェーデンの映画評論家スティーグ・ビョークマンとの対話の中で、フィルムスクール時代のことに対し「第一に、作りたい映画の費用の心配をしなくてよくなったこと!」と発言している。

さらには、テレビ局も映画製作に関わるようになり、ドグマ作品もデンマーク国営放送(DRTV)がプロデュースした。このようにして 1980 年代以降からデンマークはポルノ映画から芸術映画へと舵を切った結果『バベットの晩餐会』、『ペレ』で二年連続アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。そしてラース・フォン・トリアー監督とトマス・ヴィンターベア監督を主導としたドグマ 95 の動きが始まりデンマークは国際映画祭での受賞を目指す芸術映画路線へとメインストリームが移行した。

つまり、1980 年代以降、デンマークはポルノ映画から国際映画祭での受賞を目指す芸術映画へと注力のベクトルを移行していった結果ポルノ映画ブームに終焉が訪れたと考えられる。

2.インターネットの登場

二つ目はインターネットの登場にある。

モーテン・シングの研究によると、1990 年代にパソコンが一般家庭に普及。それに伴いインターネットポルノが急速に発達した。その結果セックス・ショップや映画館に行かなくとも、ポルノ映画が観られる時代となった。つまり一般的に映画館で観る意味でのポルノ映画の需要がなくなった為消滅したと考えられる。次節では、実際に作品を分析することでデンマークポルノ映画の特徴を体系化していく。小松弘のポルノ映画に関するコラムによるとデンマーク映画はスウェーデン映画と比べるとコメディ色の強い作品が多いとのこと。

・最後に

この記事では、チェ・ブンブンが大学時代に執筆した卒業論文《1970 年代デンマークポルノ映画がドグマ 95 に与えた影響》の「デンマークポルノ映画史の始まりと終焉」の章を抜粋して紹介しました。論文の中では、実際にデンマークポルノ映画を鑑賞し、各作品に対して分析を行なっていたり、ドグマ95との関連性について論じられています。

冒頭でも書きましたが、もし気に入りましたら、『チェ・ブンブンのティーマ』自己紹介ページに貼ってあるリンクからPDFをダウンロードしてください。

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