ゾシマ長老の腐臭がクサすぎる意味【カラマーゾフの兄弟ネタバレ感想レビュー】2
副題:『カラマーゾフの兄弟』最大の意味不明の難所『ゾシマ長老の話』はあまりにも意味不明で読むのがしんどすぎる難所で通称『ゾシマ越え』とまで言われている。そんないくつかのゾシマの話の中でも『最後まで何が何だかさっぱり…?』とぼやかれがちな最終難所『ゾシマ長老が死んだら死体がクサすぎたってだけで民衆が発狂し→”ゾシマは悪い坊主だったから死体がこんなにクサいんだ!”って超理論が展開され民衆は大騒ぎし→アレクセイまでもが”こんなにクサいってことは…尊敬したゾシマ長老は悪い人だったんだ…”とゾシマを疑い絶望しはじめ→ゾシマが嫌いだった坊主たちは狂喜乱舞→しかも一度はそんなに絶望した癖にアレクセイはたいしたきっかけもなく数晩寝たらいい感じの夢などみてサクッと悟りを開き→特に何の現実的なきっかけがあったわけでもないのに夢で納得し→亡きゾシマ長老を再び深く信じて→その結果、教会を棄て、教会を脱出して捨聖的な人生をスタートするのであった』のくだりには 困 惑 としか言いようがないしこれを解説するためには通常タブーとされている宗教の根源的な矛盾を暴かなければならないせいもあって、とにかくロクな解説がないのだが、ここがカラマーゾフの兄弟の核心に近い一番重要な部分でもあり、マヨコンヌは伝統仏教寺院の末裔に産まれたせいで、このわっけわっかんねー状況がものすごく腑に落ちたので、ここんところをふつうの人なら言わないようなぶっちゃけな赤裸々な言葉で罰当たりに解説します!!!!
1 そもそもカラマーゾフの兄弟ってドミートリイの話ではなくアレクセイの目覚めの話っす
。。。とまあ、
前回記事でわたくしは「カラマーゾフの兄弟」を
『賭博がヘタすぎるうえに性欲に振り回され過ぎな人しか出てこない賭博黙示録カイジ』
と定義しちゃったけど。
ま、『カラマーゾフの兄弟』で最も暴れまくってる長男ドミートリイあたりに焦点を当てると、まさにそーゆー話なんだけども。
ただドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟の序の部分に『これは三男アレクセイの物語だ』と明記しているんだな。
そしてこの大長編物語はもう1個の次に続く長編小説の前置きでしかないのだと、『重要な小説は2番目のほう』と序文にいきなり書いている。
え。
で、この『カラマーゾフの兄弟』という長い小説とは『つつましい、とらえどころのない』『奇人』『つかみどころのない活動家』である三男アレクセイの重要な物語のための『前置き』でしかないのであると。
そ、そ、そ、そうか。
これは『前置き』だったんかい…前置きだけで分厚い数冊の小説…
まあいい、それでだ。
で?その次の『三男アレクセイがメインの重要な物語』はどんな小説なの?
三男アレクセイが活躍する本編は、書かれる前に
著者が死んじゃったので
存在しません。
ちょ!
未完やん!!!!
そんな状態で後世の人に前編のカラマーゾフの兄弟だけを読ませんじゃねーよ!!
でね。
そうなのよ。
なんか変やと思ったわい。
確かにこの小説、長男ドミートリイの話がメインだけど、ドミートリイが主人公だとするとあの延々と続く2個の宗教的な話が一体なんのためにあるのか、端々がメチャクチャ辻褄が合わんのね。
そゆことね。
つまり、これは、産まれながらに途方もないドロドロに渦巻く煩悩に満ち満ちたカラマーゾフの血を持ちながら他の親兄弟のように煩脳のために他者を苦しめずその煮えたぎる煩悩を不思議に乗りこなせるアレクセイが
教会に属しない捨聖となり活躍する話の
その前のはじまりの物語のはずだったのね。
アレクセイ・ビギニングだったんか。
2 カラマーゾフの『ゾシマの死体が臭すぎる話』がワケワカメすぎると評判の件
で、『カラマーゾフの兄弟』読んだ人が繰り返し困惑するワケワカメに長いうえに中身もワケワカメな2大ワケワカメ話
1 大審問官の件(イワンとアレクセイの宗教議論が長すぎん?大審問官のくだりとか登場人物が創作寓話語り始めるとかなんかもう要らないでしょ。
2 ゾシマ長老の死体が臭すぎる件(ゾシマ長老が死んだときに腐臭がとてつもなく臭かったって話さあ、あんなボリュームで描く話でもないし、臭かったからってだから何よ、信徒はなんであんな発狂してんの?)
のふたつの中で、みんなが困惑する割に、滅多に解説すらされない 2『ゾシマの死体が臭すぎる件』を伝統仏教一族の末裔に産まれて宗教に内側を見過ぎてすっかり宗教がいやになっちゃったマヨコンヌさんが宗教関係の末裔だからこその歯に衣を着せぬ言葉で言い散らかすわよ!
3 ゾシマの死体が臭すぎて実はアレクセイもはじめは滅茶苦茶くじけた。でもアレクセイは一度絶望する必要があったのでこれでいいのだ!
小説中のロシア正教では徳のある宗教者は、禁欲的で節制した食生活をしているはずだから物理的に腐りにくい→転じて、神に近い=腐りにくい、堕落した汚い人間=よく腐ると見做されている。
話の流れから想像するに、死体の腐りにくさ&死亡時の『奇跡』(=死亡時の超常現象)で『坊主の徳の高さ』を測るのは当時の一般的な感覚だったようだ。
このロシア正教だけではなく、そもそもキリスト教の中には『聖人は腐らないんだもん伝説』というものが割と一般的にあるようですね。
まぁよーするにアイドルはウン○なんかしないんだもん!という思い込みみたいなものです。
ただこの『徳の高い聖人は死んでも臭い匂い出さないし永遠に腐らないんだもん!』伝説の困ったところは『反対に腐る=悪人である証拠』みたいな訳のわからん気持ち悪い思い込みへと転じ→人間の根拠の無い理不尽な差別意識や悪意に結びついてしまってる所ですね。あーやだやだ。
で。
教会とは、いや世界のあらゆる宗教施設というのは、権力者に弾圧され続けるか、権力と融合して権力者の手先となり民衆搾取機構の走狗に成り下がるしか生き残る道はないつまり宗教とは運命的にゴミへと劣化するものであるとマヨコンヌは思ってるんだけど、
つまりアリョーシャが見た教会も、不幸な農奴たちに『現世では不幸でも大丈夫だよ、だって死んだ後で天国で幸福になれるよwだから理不尽で不幸な人生でも領主さまに従うほど幸せになれるからね』というウソを与えて、封建制度を維持し農奴を押さえつける機関として機能していて、教会とはそのペテンに信ぴょう性を持たせ盛り上げるための施設でもあった。
そしてそのペテンを盛り上げるために、教会の坊主たちは、長年代々ひそかに結託していろんな嘘の『奇跡』を演出したりしていたのかもしれない。坊主は自分の死が近くなると死ぬ前に特殊な食事制限を行ったり、時には自らもしくは防腐効果のある薬剤(=腐敗を防ぐ薬剤って基本的には要するに毒)を飲んだり、周囲に盛られたりもしたかもしれない。
(実際に小説の中でも、ゾシマ長老に反発・嫉妬している僧たちは、一般的なおいしい食事ではなく、水とその辺の草を食べつつ厳しい修行をする、といった、特に民衆の幸福とは無関係の無意味な苦行を積極的に行いそれを僧のあるべき姿と考えていた。だから、ゾシマのようにふつうの食事をしつつ信徒の悩み相談を積極的に行う民衆の為に尽くす坊主はむしろ堕落しているダメな宗教者なのだとひどく批判していた。しかもそんな苦行僧たちはゾシマが苦行層よりも民衆に人気があることに強い怒りや嫉妬を抱いていた。)
そしてきっと、教会は一種のインチキペテンを使った催眠セミナー的な役割を演じ、嘘の奇跡が一部の僧たちによって秘密裏に繰り返し演出され、農奴たちはその奇跡を見て歓喜・興奮し、その奇跡を根拠に来世を信じ、現世の苦しみを我慢し、だから封建制が維持される。
だが。
長老ゾシマは、そういう封建制維持のためのおためごかしのペテン演出を良しとするインチキ坊主連中とは結託していなかったし、彼らには嫌われていた。
(信徒と語り合うためもありゾシマは苦行を否定しており信徒の魂を癒し救う事に重きを置いてますから、だから信徒と普通の食事とかしてますから、たぶん水とその辺の草食ってる苦行僧よりよっぽど腐りやすいのは当然の理でもありますね)
長老ゾシマの遺体は俗人よりもずっと早いほどのものすごいスピードで腐り果てて人気の長老らしからぬ恥ずべき腐臭=とびきり低俗な俗人の証拠を晒した。
奇蹟は起こらない。
徳を積んだ聖人であるはずのアレクセイが最も尊敬するゾシマ長老の死体にはなんの奇蹟も起こらないどころか
異常にだっさい腐り方をする。
(ゾシマ長老は自分が死後腐りにくくなるような食生活に努めてなかっただけでなく、ゾシマ長老の遺体にこっそりとインチキなペテン細工を施すインチキな奇跡を演出する坊主仲間が一人もいなかっただろうしね、そりゃそうなるわな。たとえば死体を温まりやすい場所に置くかどうかとか、死体を清掃する時のやり方とか、その程度のことでも状態は変化するはずだ。むしろゾシマ長老ヘイト派閥から、死体がわざと腐乱するように嫌な細工すらされてても、おかしくない状況)
俗人でも珍しいほどにとんでもなく早く・強烈な腐臭を放つゾシマ長老の遺体を見て
即ち、ゾシマ長老は俗人よりもよほど徳が低いダメな奴でありそういう悪人のペテンに俺たちは騙されていたんだ!!!と結論つけて、
ゾシマ長老に心酔していた農奴たちは素直に絶望した。
長老にだまされた!と
クサいってことはゾシマはとんでもなく悪い坊主だったんだ!と
人々は亡きゾシマ長老を憎み軽蔑し怒り狂った。
まぁ令和の現代人感覚では
アホかお前ら…とんだ『死体腐敗占い』だろ…
って感じなんですけど、当時の敬虔な信者にとってはそういったオカルトスピリチュアルは自分の信心を支えるためのものすごく重要な柱みたいなものだったのだ。『神が奇跡を起こさず→道徳を守っても死後天国の楽園に行ってウハウハできるわけではなさそう→教会に騙された!そんならもうあらゆる倫理を捨てて悪行の限りを尽くすぜ!』位の感覚で、じつは単なる損得勘定による信仰。
そして。
アレクセイは手のひら返してゾシマに怒り狂う信徒達の浅ましくも哀しい姿を見ながら
アレクセイ自身も敬虔な信徒なので、心の中でかなり信じていた『奇跡』が、よりにもよって一番尊敬するゾシマ長老にだけは起こらなかったことについて、はじめの間は実は、脳天を揺さぶられるほどガッカリしたのだ。
だが。
教会で今まで起こっていた奇跡というのは実は多くがインチキ坊主共がこっそり結託して陰でやってたインチキな小細工に過ぎない、とじわじわと悟り始めたのだ。
インチキスピリチュアル演出坊主たちは長年の間グルになって互いに嘘の奇跡を演出し合いながら民衆をだまし、民衆の信頼と尊敬を集め、本当に民衆に役に立つ癒しや哲学を与える事よりも、ただ天国地獄思想を盛り上げて、民衆に来世での恐怖と快楽という空虚な飴と鞭をちらつかせ、民衆が現世をあきらめて喜んで現世の富を権力者に吸い上られて不幸のまま満足してもらうシステムの手先を担っていた。
しかしゾシマ長老が死んだときに『嘘の奇跡がいっさい演出されなかったこと』『とてつもなくひどい腐臭が出た事』とは逆説的にゾシマ長老がそういうインチキ坊主連中と結託していないまともな人物であった、搾取機関の手先としての坊主ではなく、ウソの超常現象をちらつかせて民衆を信頼させだましてお布施を吸い上げる詐欺集団としての坊主でもなく、自らの知性や深い教養や民衆への深い愛情から民衆に癒しや指針を与え民衆の現世を幸福に導く坊主、本当の意味での立派でまともな坊主であったことの証明でもある。
つまり、ゾシマ腐臭事件とは、アレクセイが、民衆を搾取システムとしての教会とか、荒唐無稽な奇跡や来世を信じるインチキスピリチュアルとしての教会と、きっぱりと決別して、そういうインチキスピ要素を完全に削り落とした後もなお残された、本物の意味での自分を見つめるための哲学としての宗教を自分の中に見つけるための無くてはならない事件だったのだろう。
(もちろん、この小説内では『キリスト教における聖人に起こった非科学的な奇跡なんか全部がインチキまたは勘違いである』と言い切ったりは決してしていない。奇跡があるかないかとか信じるか信じないかではなく、奇跡という派手な演出装置を使ってウソを演出して、理不尽で道理に合わないことを民に納得させるという要素を全て捨ててもなお、アレクセイは『善の哲学』としてキリスト教を敬虔に信じ続けられるしアレクセイにとってのキリスト教とは非科学的な奇跡とは違う場所にあったということ)
そしてゾシマ長老が生前アレクセイに薦めたように、アレクセイは自分はやはり教会の外に出るべきだと悟り、出る。
4 つまりアレクセイは、『奇蹟が起こらない事によって』逆説的に神の存在を確信し神を発見した。
つまりアレクセイは『超常現象やら来世救済などのオカルトの餌によって民衆を騙して現実逃避させて押さえつける搾取システムという意味での』インチキな奇跡とは実はペテンであったという事を、思い知ることによって、教会の唱える神とは違う本物の神の存在を確信した。
神を信じるとは奇跡を信じるとは、都合のいい超常現象を期待する事ではなく、ただ現実世界にも善が自然に存在することに奇跡を感じて感謝してそれを深めていくとか、乾いた小さな種から芽が出ていつしか巨木に育つという世界の神秘に奇跡を見るとか、そういう事なのだ、と徹底的に悟ることによって
『自己の脳内に降り立った神秘的なキリストの存在』を逆説的に確信した。
おそらくアレクセイが見出した神とは大地から産まれる素朴で自然な善なるものであり、
それは煩悩にまみれた犯罪者でもある俗世の人々の中にも存在するものであり、中でも煩悩の権化たるカラマーゾフの血族達の中にすら存在するのだとここで悟った、ように、わたくしには思える。
(ちなみに、だからこそ、この悟りの前に次兄のイワンは『大審問官』のくだりなどでしつこくしつこくアレクセイに、「神なんか存在しない、神が存在するならばこのような穢れた病んだ世界を神がわざわざ創るのだ!どうしてこんな嫌な世界で人間を苦しめ続けるんだ!こんな世界を創って人間を苦しめるような存在があるとしたらそんなものは神ではない!そして、神を存在しないという事は、いかなる犯罪も犯し放題であるという事だ!!」みたいな現代日本人的にはなんかピントずれたような事(いまの日本だと神が不在なのにほどほどに道徳・警察・社会保障が機能しているからね)をメチャクチャ勢い付いて議論している。そしてアレクセイはハッキリと反証しないで議論を終わらせる。きっと、ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟の続編で、覚醒後のアレクセイにネギを持たせて、「イワン兄さん、ほら、神は存在するじゃないですかこのネギの中に。今踏み締めている痩せた大地の中にも存在するじゃないですか。そしてイワン兄さんや、ドミートリイ兄さんの中にも、神が居ますね」みたいなストーリーを展開する気だったんで、だからあの議論はどこかわざと中途半端に暗示的なかんじで終わっているんだろう)
つまりアレクセイとは、たとえば親鸞みたいな人に成長していくはずだったんではないか。
肉食妻帯をして、自分が死んだら葬式なんぞ要らないから死体は鴨川に棄てて鴨川の小魚達に喰わせてやってくれと言って死んだ親鸞のような人に。
アレクセイは穢れた下界で穢れた罪人に『1本の細いネギ』を与えるようなささやかな功徳を成すために産まれてきた。
もしくは
生きている間中いつも酷い行いをし続けてた意地悪でケチな穢れた罪人に『あなたはよい人ですよ、天国に行けますよ、なぜなら一生で一度だけ、お腹を空かせた人に小さな細いネギを1本だけ与えたことがおありでしょう?わたしはそれを知っているのですよ』と思い出させて死ぬ前に一瞬の安らぎを与えるために産まれてきた。
その仕事はアレクセイが適任なのだ。むしろゾシマよりもアレクセイの方がずっとずっとその才能がある。
なぜならアレクセイは、罪人を、犯罪者を、けっして軽蔑しない不思議な聖人だから
なぜってアレクセイは
当時、この世で最も道義に反する行いとされた『父殺し』の容疑者を長兄に持ち、
『淫蕩と非道の限りを尽くした』父を持つ男だから。
なにより自身の中にもじつは煮えたぎるようなとてつもない肉欲と生命力を隠し持っている男だから。
最終的な行動は、ひたすら優しい聖人君子だとしても、アレクセイの中にはそのへんの罪人なんぞびびってしまうようなとんでもない毒が渦巻いているから。
アレクセイの肚の中には他のカラマーゾフの兄弟達とおなじような赤々と燃え煮えたぎる溶鉱炉がありそこには千匹の悪魔がぴょんぴょん飛び跳ねていて、そしてその悪魔の巣食う煮えたぎる溶鉱炉はアレクセイの本質でありアレクセイのエネルギーの源泉であるとアレクセイは知っている。他のカラマーゾフの兄弟達と違い、その溶鉱炉のパワーで、貧しい大地の上で苦しむ人々に寄り添い勇気づけささやかなネギを与え続ける捨聖になるとしても、このほがらかでやさしいアレクセイは本質的に頭の上からつま先まで真っ黒にカラマーゾフでありそんな自分のカラマーゾフ性を、己のどうしようもない獣性を、アレクセイは心底愛している。むしろ父親や長男や次男達よりも自分のカラマーゾフ性を受け入れている。
そして、
そういう恥ずべき血カラマーゾフの三男だからこそ、アレクセイとは、罪人を、犯罪者を、恥ずべき混沌の世界を、やすやすと尊敬し愛して赦す事ができる唯一無二の男でもある。
そしてアレクセイの夢の中で、死んだゾシマはアレクセイに
「新しい酒を飲もう。偉大な新しい喜びの酒を酌もう。見ろ、なんと大勢の客であろう。…ここにいる人はたいていネギを与えた人ばかりじゃ。お前も今日、一人の渇した女に一本のネギを与えたのう。はじめるがよい、せがれ、自分の仕事をはじめるがよい。お前にはあの方の太陽が見えるか。お前にはあのおかたがみえるか」
と語りかけてくる。
5 アレクセイが最後に見つけた神とは
そしてアレクセイは、修道院を出て、大地に接吻する。
教会でもなく、
修道院でもなく、
長老にでもなく、
大地に。
穢れた肉欲と混沌が渦巻く大地、
それだけがアレクセイのキリストなのである。
追記:
「アリョーシャの覚醒とゾシマ長老が奇蹟を見せずに腐った話と大地に接吻した話とネギの話」
が丁度note記事にありました。これです!
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