見出し画像

【南大沢土木構造物めぐり】No.26 ニュータウンの縁部のトンネル群を歩く ~堀之内地区のトンネル群~

今回は、京王堀之内駅から日野市の方向に伸びる都道155号線にある4つのトンネルと、途中で分岐する道路にあるトンネルを紹介します。このあたりは、多摩ニュータウンとして開発されたエリアと、開発されなかったエリアの境目にあたる地域で、古くからの農業や酪農などの生活などが残された貴重なエリアでもあります。堀之内エリアも非常に興味深い場所ですが、エリアの探訪記録はまた改めて記載することとしたいと思います。

画像1

【北八幡寺芝トンネル】
北八幡寺芝トンネルは、都道155号線が野猿街道から北上してすぐのところに差し掛かるトンネルです。トンネルと言うものの、この「土木構造物めぐり」では過去に登場した「カルバート」というのが妥当と思われる開削トンネル(一度掘削して躯体を構築して埋め戻したもの)です。長さは50mくらいの短いトンネルです。交通量の多い交差点からすぐのところにあり、沢山の車が行き交うトンネルです。このトンネルの上部はどうなっているでしょうか?

画像2

トンネル上部は、「堀之内北八幡緑地」となっており、「北八幡神社」があります。北八幡神社は、16世紀に由木城や滝山城を居城とした大石定久の弟、宗虎が勧請したものとされており、地域の鎮守として鎮座していた神社を平成6年(1994年)に改築したものだとか。境内には古くからの石灯篭や地蔵尊なども残り、切土にして道路にしてしまうと、神社の参道が寸断されてしまうので、緑地として保全しながら道路を通す対策を行ったのではないでしょうか。

画像5

画像4

画像3

【堀之内第1~第3トンネル】
次に、都道155号線をもう少し北に進むと、堀之内第1~第3という3つのトンネルが連続した区間がやってきます。第2トンネルを抜けた先に交差点があり、そこで東京薬科大学方面に抜ける道が分岐します。第3トンネルを抜けると、日野市平山に到達するというトンネル群です。
(堀之内第一トンネル)

画像6

画像7

【堀之内第一トンネル 1996年12月 東京都 施工延長 120.0m
 施工 鹿島建設・拓栄建設建設共同企業体】

(堀之内第二トンネル)

画像8

画像9

【堀之内第二トンネル 1995年3月 東京都 施工延長 60.0m
 施工 鉄建建設・黒須建設 建設共同企業体】

(堀之内第三トンネル)

画像10

画像11

画像12

画像13

画像14

【堀之内第三トンネル 1994年3月 東京都 施工延長 265.0m
 施工 清水建設・清水組 建設共同企業体】

第3トンネルが最も長く、途中でカーブしており、入り口から出口が見えないので、かなり長い印象を受けます。銘板から判断すると、工事は日野市側から堀之内に向けて順次掘り進めていったようです。この道路は多摩ニュータウンから日野市に抜ける幹線道路になっており、また東京薬科大学など、通学する学生も少なくないようで、車、歩行者とも多くの人々が利用している状況でした。

【とうやく隧道】
最後に紹介するのは、「とうやく隧道」です。都道155号線の堀之内第二・第三トンネルの間にある交差点から分かれて、隧道を抜けると東京薬科大学にアクセスできるトンネルです。「とうやく」とは、薬科大の略称のようです。隧道と呼んでいますが、見てわかる通り、開削トンネル(カルバート)のようです。隧道直上は、薬科大のグラウンドとなっているようです。トンネル坑口に、ちょっと見えにくいですが、「とうやく隧道」と名前が入っています。少し古そうな印象を受けます。

画像15

画像16

画像17

画像18

【竣工時期 1973年3月 学校法人 東京薬科大学建造
 設計 株式会社アイ・エヌ・エー新土木研究所
 施工 佐藤工業株式会社】
何と、驚いたことに、この隧道、都道155号線の隧道ができる20年以上前にすでに完成していたのですね。ニュータウン開発より先に大学のキャンパスの工事が進んでいたというのは、少し意外に思いました。

画像19

画像20

トンネルを抜けると、東京薬科大学のキャンパスに到着します。ここにはバスターミナルが出来ており、京王堀之内駅や日野市方面へ多くのバスが発着しています。隧道がまだ行き止まりだったころは、反対側の南陽台方面からしかアクセスできなかったので、相当不便だったことと思われます。構内はコロナ影響で関係者以外は立入禁止でした。バスターミナルに、「東薬」と書かれたマンホールを発見し、非常に興味深かったです。

画像21

画像22

薬科大のキャンパスのすぐ隣は、堀之内の昔ながらの農業を営む地域になります。そこには、「東薬大生車両通行禁止」などの言葉が並びます。開発行為によってキャンパスを移転してきた大学と、地域住民との間には、過去には対立することもひょっとしたらあったのかもしれません。ただ、大学キャンパスが移転してきて40年以上の歳月がたった現在、大学も地域住民も、ともに地域に根を下ろした状態なので、もう少し地域と大学がオープンに交流できるような関係が出来ていくと良いような気がしました。

【終わりに】
今回は、都道155号線の4本のトンネルと、それに接続する、東京薬科大学のトンネルを探索しました。都道155号線は、このトンネル群ができるまでは、地域を縦断する細い旧道しか通じていませんでしたが、トンネルができて通行開始になったことで、大変便利になった一方で、沢山の通過交通が通り、閑かな農村だった地区が変貌を遂げるきっかけになったのではないかと思います。東京薬科大学も、移転してきた昭和51年(1976年)当時と今では、交通事情や周辺環境なども大きく変わったのではないでしょうか。そんな中で、北八幡神社のように、多少形は変わっているでしょうが、昔ながらの信仰の場も何とか残されていると考えます。
今回は紹介しませんでしたが、堀之内の昔ながらの農業・酪農で生活されている地域と種々の開発との共存の時代も、これからどのように変わっていくのか、大変気になるところです。この地区を歩くと、ニュータウン開発やその前の原風景、ニュータウン以外の開発の波についても、考えさせられることが多いです。次回以降で、地区の昔ながらの光景等について取り上げたいと思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?