▼京都・伏見の鉄分高め散策▼①:伏見区の鉄道の歴史を訪ねる
京都市伏見区は、自身の生まれた町です。自分の住んでいた地区は、伏見区でも西の外れの羽束師という地区ですが、伏見区の真ん中あたりに高校・大学時代に通っていたこともあり、なじみ深い場所でした。
この地区には、
①京阪電車
②近鉄京都線
③JR奈良線
という、3つの鉄道が走り、なかなか面白い場所です。さらにかつては、
④京都市電
も走っていました。
これらの鉄道、結構複雑な歴史を辿っていて、それがまた面白かったりします。そんな歴史のポイントをいくつか辿ってみたいと思います。
■鉄道の路線の変遷
鉄道の路線の変遷を、「今昔マップ」を用いてみてみましょう。まずは、明治時代末期の地図から。
①明治末期の地図
この当時の地図の路線から、京阪電鉄は路線が変わっていませんが、奈良線は、桃山駅から北側は違う場所を通っています。桃山駅の次は伏見駅となっていて、今の近鉄京都線のルートを走っていました。
また、京都電気鉄道(のちの京都市電)は、京橋駅が終点でした。京橋の近くには、今でもこのな石碑が残されています。
②大正時代の地図
大正時代になると、奈良線が今の路線に変更になりました。実は、奈良線の今のルートは、かつて稲荷駅の南側までは、東海道本線でした。このルートから、大正10年に東山トンネルを経由する現在のルートに切り替わった際に、奈良線は今のルートに付け替えられ、旧線は貨物線となりました。
③昭和初期の地図
近鉄京都線の前身、奈良電気鉄道が開業しました。桃山御陵前駅が高架駅でできて、そこから丹波橋駅の前身である、堀内駅が開業、そこから京都駅までは、奈良線の旧線を譲り受けて開業させました。
④昭和30年代の地図
大正時代に今の路線の形にほぼなっていたのですが、戦時中に近鉄と京阪の丹波橋駅を統合する工事が行われ、丹波橋駅は共用の駅となっていました。昔の堀内駅のところには、奈良電気鉄道の貨物側線が残っていたそうです。
⑤そして、今の姿
昭和40年代に入り、丹波橋駅を共用するのは、平面交差もあり非効率であったため、再び近鉄線が堀内駅の跡地に「近鉄丹波橋駅」を設置し、平面交差を解消し、連絡通路のある今の形になりました。また、京都市電の伏見線が1970年に廃止され、路線網は今の姿になった、という感じです。
■近鉄竹田駅→桃山御陵前駅
というわけで、この正月に、実際に伏見区内を散策した様子をご紹介します。まず、最初のスタート地点は、竹田駅。今は地下鉄と近鉄線との乗換駅になっていますが、かつては奈良鉄道の路線上にあった場所です。
この道は、かつての伏見城に向かう大通り。その後、明治天皇の墓所である、桃山御陵ができ、その参拝路となったため、京阪・近鉄・JRがそれぞれ駅を設けたというのが、この場所です。
■丹波橋駅付近の廃線遺構
桃山駅の北側で大きくカーブする奈良線ですが、カーブせずにまっすぐ進んだ先が、かつての奈良鉄道の廃線跡になります。痕跡は何もありませんが。
今回の記事は以上です。伏見区内の鉄道をテーマにした散策、実はまだまだいろんなところを訪ねています。次に紹介したいテーマは、「踏切」と「地名」のことです。それから、「疎水」と「軍都」のことや、いろんな土木構造物のことなど、実はこのエリアは話題に事欠きません。いろんなテーマで歩くことができる場所ですので、そのあたりを次回以降で紹介したいと思います。
■終わりに
京都市伏見区内の鉄道路線は、実は昔から大きく変化していました。そんなところを歩く散策、とても面白いものがあります。実家に近い場所ですが、改めてゆっくり歩くと、沼に落ちたかもしれない、と思いました(笑)。
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