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【南大沢土木構造物めぐり】No.23 明治時代に栄えた交易路のいまを歩く ~絹の道いろいろ~

表紙の写真は、鑓水(やりみず)地区の大栗川にかかる御殿橋です。高欄にひときわ大きな文字で「絹の道」と書かれています。ここが絹の道であったことをとにかく知らせたいという思いで作られたのではないでしょうか。今回は、「絹の道」の現状を歩き、色々と視点を変えた見方をしていきたいと思います。

【絹の道とは】
「絹の道」とは、「桑都」と呼ばれた八王子や、関東平野北部等で作られた生糸を海外に輸出するために、江戸末期に開港した貿易港、横浜に運ぶための運搬路です。その繁栄の背景には、「鑓水商人」とよばれる、鑓水地区の人たちが生糸の販路を切り開く役割を果たしており、そのため徒歩での交易ルートは明治時代の鉄道開業前に大いに栄えました。その後、横浜の商人、原善三郎の手で、「横浜鉄道」が1908年に東神奈川~八王子に鉄道を開通させました。現在の横浜線です。この線やこれに先立ち開設された「甲武鉄道」(現在の中央線)ができたことで、徒歩での絹の道は、その役割を終えることになります。
「絹の道」の詳細は、下記の八王子市の資料をご参照いただくか、鑓水にある「絹の道資料館」(現在はコロナ影響で休館中)を訪れるとわかりやすいと思います。

【古地図でたどる「絹の道」】
下の地図は、「今昔マップ」から、明治初期の迅速測図の地図を抜き出したものです。また、現在の地図との比較も下記にリンクを入れておきます。
「迅速測図」をみると、鑓水村の右のほうに、「絹の道」である「浜街道」が記載されています。この地域にはもう1本南北の交易路(地図左側)があり、こちらが現在の国道16号の原型になる道です。浜街道は、鑓水地区から尾根を登り、てっぺんの道了堂めがけて石段を上がります。そのてっぺんがこの地図では「鑓水峠」と書かれています。どこの古道もそうですが、昔の道はおそらく土砂災害等を避ける目的もあるのでしょうが、険しい尾根道をあえて選んで道が作られていることが多く、そういう道は車が通る時期には淘汰され、新たに新しい新道が谷筋に作られることが多いですが、この地区は鑓水峠のルートは険しい道なので次第に打ち捨てられ、御殿峠を越える国道16号のルートに集約されていったのではないかと思われます。

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【絹の道をたどる】①多摩ニュータウン内
さて、絹の道をたどっていきたいと思います。まずは多摩ニュータウン内から。スタートは、先日紹介した、鑓水小山給水塔です。ここからニュータウン内に延びる遊歩道が、浜街道のルートと一致しているのです。

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これは、浜街道ルートの遊歩道を横浜方向に撮影したもの。前に道路橋が写っていますが、これが「浜街道陸橋」です。

(浜街道陸橋)

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写真で見てもわかるように、高欄の装飾が凝っています。八王子側と横浜側それぞれに、その場所を表すイラストが埋め込まれています。横浜方は海や洋館のイラスト、八王子方は、機織りや生糸のイラストです。凝った作りになっています。

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【1993年3月 東京都建造 下部施工 井草工業株式会社】
【浜街道陸橋 1994年3月 東京都 道示(1990)一等橋
 定着方式:フレシネー工法 製作:極東工業株式会社】

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(ニュータウン内遊歩道)
ニュータウン内の遊歩道は、一見何の変哲もない遊歩道ですが、時折「鑓水浜街道緑地」という標示(おそらくあまり浜街道を積極的に示したものではなさそうな気がしますが)や、説明板があり、控えめではあるものの、ここが浜街道(絹の道)だったことはPRしようとしています。

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(穂成田歩道橋)
穂成田歩道橋は、この浜街道の流れを組む遊歩道が道路の上を越える橋です。ここも絹の道のことがさりげなくカラー舗装などにちりばめられています。ここは鑓水公園につながっているので、橋の下は子供たちの極上の遊び場と化していました。

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【1997年12月 東京都建造 下部施工 石上建設株式会社】
【穂成田歩道橋 1998年3月 東京都 道示(1996)
 定着方式:フレシネー工法 製作:株式会社 ピー・エス】

【鑓水地区の絹の道】
(小泉家屋敷)

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昔の浜街道沿いに、当時の生活をしのぶ民家が残っています。養蚕農家の様子が観察できます。(現在も居住されています。)詳細は八王子市のHP(下記)を参照ください。

(御殿橋)
先ほど表紙で紹介した、大栗川に架かる橋です。栄えていた頃の道了堂の様子のレリーフなども高欄にあしらわれています。よく見ると、昔の大栗川だけでなく、由木街道の地下に流れている暗渠や、絹の道資料館側の谷戸からの水の暗渠が合流する場所になっており、橋の下が思いのほか複雑です。

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【1986年11月 東京都建造 下部施工・上部施工 株式会社田中建設】

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御殿橋のたもとに、絹の道が反映していた頃の道しるべが建っています。(河川改修等で移築したとのこと)
左の面は「此方 八王子」
右の面は「此方 津久井」という文字は読めました。

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(絹の道資料館周辺)
このあたりは、ニュータウン開発の範囲の外で、昔ながらの農村風景が広がります。非常にのどかな場所です。絹の道資料館は現在休館中ですが、絹の道のことや、鑓水商人のことなどが多く展示されています。

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(絹の道と現在の道路の分岐点)
絹の道は、尾根に向かって山道を登っていきますが、現在の車道は谷沿いを走り、八王子バイパスを越えて御殿峠につながっています。分かれ道にたくさん石碑等が建っており、非常に興味深いです。

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その中には、「庚申塔」や、「道路開通記念碑」なるものもあります。道路開通記念碑は、下記の通り記されています。
 【道路開通記念碑 昭和59年10月吉日建立 岸耕地道路改修委員会】
今いる谷戸は、過去に「巖耕地」という地名が古地図では書かれていましたが、「岸耕地」と読み替えられていたのかと思います。いずれにしても、やはり農村部では道路の改修は悲願だったのでしょう。この地区にはいくつもの道路改修碑があります。それらはまた別の機会で紹介したいと思います。

【絹の道(山道)を歩く】
先ほどの道しるべからしばらく歩くと、山道になります。車も少々通るようで、人の往来も活発なので、非常に歩きやすい山道です。心地よい坂道を15分くらい歩くと、道了堂跡への石段が続きます。

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「絹の道」とかかれた大きな石碑があります。

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「鑓水商人記念」と書かれた石碑です。「1957年4月 東京・多摩有志」と記載されています。

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道了堂は、明治時代には非常に栄えましたが、現在は廃寺になっています。たくさんの石碑等が建っており、当時の面影を偲ぶことができます。下記には「明治12年」と書かれています。

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上記は、山頂にある「二等三角点」です。

(片倉方面へ)

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道了堂の山の上から、八王子市街を眺めます。(この写真は、石段を下りて御殿峠方向に向かったところです)写真に少し写っている道しるべを左に曲がると、八王子バイパスの道了山跨道橋を越えて御殿峠まで歩けます。

道了堂から片倉台を目指すと、眼下には片倉台団地が広がり、石段を下りて住宅街にたどり着きます。住宅街は、古い絹の道の痕跡をかき消していて、ここからはどこが絹の道かは判然としない状況です。

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【終わりに】
絹の道(浜街道)を歩きました。八王子市が史跡として整備しているのは、主に鑓水地区の資料館から道了堂までの区間です。それ以外の区間でも、多摩ニュータウン内は、整備された美しい遊歩道に、何か所か「浜街道」との表記があり、それを見つけながら散策するのも悪くないでしょう。片倉方面は、本当に古い道がどこだったかを探すことも困難であり、せっかくなら少しでも良いので、もう少し「絹の道」をわかりやすく整備するように頑張ってほしいものだと思いました。そんな気持ちで絹の道を歩くのも楽しいと思います。

以上、またしても長文になってしまいましたが、お付き合いありがとうございました。

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