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自分のことを話そうとすると泣きたくなってしまう現象についての説明を試みる

自己開示というものがずっと苦手である。

なるべく長文をしゃべりたくないので、いかに相手から話を引き出し、相手に喋り続けてもらうか考えている。

あまり自分のことしゃべらないよね、あなたと中身の無い話しかしてないね、とかよく言われる。

ひとりで抱え込みそうだから心配だよ、話してみたらとも言われる。

「あなたのことを知りたい」と言ってもらえるのはありがたいのだけれども、私の中にあなたにお出しできるものが無いんですよとも思ってしまう。

薄暗いものを本音と呼んで、分かりあえた気になるのなら、それは本質では無いな。


自己開示の感覚の例え話をしましょうか。

仮に、あなたが服を着ていて、例えば恋人に「あなたの服の中を見せて」と言われたら、
大半の人が服を脱いで肌をさらけ出すと思う。
私は自分の腹から内臓を取り出して差し出してしまうタイプの人間なのだと思っている。
で、相手が「うわあ…」と引くまでがセット。

「服のなか」と言われて大半の人が、「見せるのちょっと恥ずかしいけど特別な相手になら見せてもいいかな♡」みたいなかんじで肌を出して、
私は本質的に「中身」を差し出さなければいけないと思って、泣きながら自分の内側にある見せなくてもいいグロさを伴う内臓をお出ししようとする。

他人にとってその中身が大したものでなくても、私の心の中にあるものは、内臓のように簡単に他人には差し出せない。きっとこれは臆病な自尊心と尊大な羞恥心でもある。


この例え話を聞いた人はたぶん、
「わざわざ内臓を出さずとも、君も普通に服を脱いだらええやん」って言うと思うんだけど、
服の脱ぎ方が一生わからんから腹を切って内臓を取り出すしかないんですよ。超絶不器用なので…

たぶん他の人にとって、自己開示が服を脱ぐような難易度の低さだとしたら、
私にとっての自己開示は体を切って内臓を取り出す程度には難易度が高くて、グロテスクな感覚を伴うものなのだと思う。

自分のことを話すとき、泣いてしまいそうになるのは、自分の体内から内臓を取り出そうとする痛みのようなものなのかなと思っている。
本当の言葉とは自分の一部であり、少なからず自分と切り離す痛みを伴いながら差し出すものと思っているから、その痛みも無碍にしたくないな。


「あなたのことが知りたい、心の中を教えて」という気持ちは美しい感情だけど、自分にできることが相手も同じように簡単にできると思ってしまうと、相手によっては暴力にもなりうるコミュニケーションなのかもしれないと言いたかった。
これは自己開示に限らずの話。

服を当たり前に脱げる人間からしたら服の脱ぎ方がわからない人間のほうが意味わからんのは至極当然の感情だと思うんですけど、それはそれとしてあなたの共感の有無にかかわらず、事実として存在はしている。信じて。

わかりあいたいけど、わかりあえなくてもいい。
他人とわかりあえたらそりゃあ嬉しいけど、
別にわかりあえなくても、自分にしか抱えられないものがあっても本当は大丈夫なんじゃないかなと最近は思っています。おわり!

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