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“大学院入試は情報戦”の意味するもの

私は大学院進学に関する情報を少しだけブログで掲載していますが、
この記事は社会人大学院進学のお役立ち情報、というより大学院進学に対して私が思うことをつらつら書いたものなのでnoteで掲載することにしました。

大学院進学を考え、ネットで色々検索していると
「大学院入試は情報戦」
というフレーズを必ず見かけます。
「大学院入試は情報戦」とは簡単に言うと、大学院入試は各大学院の難易度のみならず、受験するコースによって試験内容や求められるものが全く異なり、
個別性が高く、対策が取りにくいく、
そしてその対策や試験の合否は
その人の純粋な学力や努力ではなく、
情報量によって影響を受ける=情報戦になっている、
ということです。

たしかにその通りで、
私も社会人として約20年働いて、大学院入試、及び研究(業界?)を
何のツテもなしにたった一人で足を踏み入れたことで痛感しました。
いくつか私なりの解釈を書いてみようと思います。

院試に関する情報が研究科によってバラバラで把握しづらい

“情報戦”について、文字通りどストレートの例として、研究科によってHPの見え方から全く違います。東大の大学院は省庁・自治体寄りの存在だからか、より一層HPの使いづらさが際立ってます。

東大の大学院の2つの研究科のトップページと
院試関連のページを比較してみました。
教育学研究科のトップページ
教育学研究科の大学院入試関連のトップページ

経済研究科のトップページ
経済研究科の大学院入試関連のトップページ

メニューのレイアウトから違うって、、。

経済研究科のコースに進む人であれば他の研究科を見ることなどないのでしょうから、あまり問題にならないのかもしれません。
関係人口からしても、
分かる人、関係のある人だけに分かればいい、
というのが通底しているのかもしれません。
そのため、外部から大学院進学を何となく考えていて、自分がどんなコースに進めばいいのか決まっていない人にとっては、このコース決めのリサーチ段階は非常に効率が悪いと思います。この段階では色々な大学院を調べているはずなのでなおさらでしょう。

大学入試のように対策が体系化されていない

大学入試は出題範囲が限定されていて(広範ですが)、社会学や経済学などの専門知識について問えない分、基礎的、暗記的な処理能力を求める内容にならざるを得ず、予備校や参考書、高校授業などで対策が体系化されています。対策の体系化は教科科目ごとに進んでいるのはもちろん、予備校や進学校などでは勉強の習慣やモチベーション、興味関心などまでコミュニティ化され、ある年齢層の一定数の人間がほぼ関わるような大きなベクトルもあります。

しかし大学院入試は同じ大学院の同じ研究科であっても、コースが違えば問われる専門知識も全く異なります。そもそも大学院は大学入試のように暗記や学力というよりも、研究分野への深い知識と関心、洞察力などを求めているのであり、本質的には試験対策で試されるようなものではないのです。

これが大学院に馴染みがない人にはより一層不明瞭なものに映ります。
社会人である程度仕事をしているとその癖による思考のためか、
“(手っ取り早く)ゴールまでの対策を知りたい”と思ってしまいます。
試験があるならどの参考書を読めばいいのか、
どういう勉強方法が効率的か、
それを知りたい、と思うものです。

大学院入試以外の試験の類は概ね対策集があるというのも、
大学院入試の具体的な対策を知りたいと思う要因かもしれません。
TOEIC、TOEFL、簿記、社労士、、、
出題範囲は広範ですが、何について具体的に問われるのか、ということは大体対策として世に出回っています。
それが大学院入試にはないんですよね。

情報というより、情報も含めた親和的“ハビトゥス”があるかどうか

具体的、局所的な対策がないということは、総合的でより抽象度の高い理解力・能力が求められるようになります。それは馴染みのある人同士であれば感覚的に共有・涵養しているものです。
いわゆる“ハビトゥス”です。
ハビトゥスとはフランスの社会学者ピエール・ブルデューが用いた概念で、
過去の蓄積によって無意識に思考や行動を方向づける個々人が持つ性質の傾向のことです。これが教養などといった身体化された文化資本となり、
それをもとに、学力、そして学歴、仕事、収入、など、社会で力を持つ資本に変わっていくのですね。

ハビトゥスは、外部の人間からするとすぐには捉えることできず、
一方で、特定の階層やコミュニティ内、例えば学術・研究領域の人であれば、ごく普通に使いこなしているような論理的な思考・文章の書き方などがそれにあたるのではないでしょうか。
論文の基本的な書き方である4段落構成も、馴染みのない人からすると説明されても何のことなのかすぐには分からないと思います。
一方で普段から小論文を書いたり、教授の論文に触れてれば、
“ああ、“あれ”のことか”と感覚的に分かるという人もいると思います。
そのようなハビトゥスが
“専門知識”や“論理的能力”などという、
その業界内で好ましい能力として定義され、
それを測るための試験が行われます。
公正な試験のように見えて親和的ハビトゥスがある人が評価されやすく、
同じような資本を持つ人たちが登用されて、同じような階層出身の人で固められ、階層が再生産されていく、、となっているのではないでしょうか。

大学院入試が外部受験生に不利なのは制度のせいではない?

ピエール・ブルデューは南フランスの農村の家庭出身でありながら、
エリート街道のグランゼコールに進んだ大変優秀な方です。
おそらく彼は学生生活の中で、良いところの家生まれの大学のクラスメイトとの文化的資本やハビトゥスの差を日頃から感じていたのだと思います。

彼のクラスメイトは日頃から何気なくオペラや芸術品に対して話題にし、
急造の詰込み式知識でなく美的感覚的なものを自然と身につけており、
芸術を楽しんでいたのを目の当たりにしたのでしょう。

ブルデューが必死に“勉強”したそのような文化的素養は、
上流階層の人は日常的に触れてきた蓄積があることで、
本人も自覚しないような身体の一部となっており、
一朝一夕で身につけることができるものではないのです。

ブルデューなどという世界的に著名な学者さんを私のような一市民の大学院進学に引き合いに出すのは大変気が引けますが、、
正直私は日常からブルデューが感じでいたであろう、
ハビトゥスや資本の差を体感しています。

大学院でこれだから、学部の東大はもっと感じるのかもしれません。
やはり学部の東大に進学する人はそれなりの家庭の人が多いです。

これは私の僻み根性や、大学生時代たいして勉強していない三流大学出身で、しばらく社会人として働いていたことも起因しているかもしれません。
しかし、そのような屈折したものの見方や経験を割り引いたとしても、
学問や研究に長く関わってきた人たちの、意識化、明文化されていないながらも、暗黙の裡に共有・求めている、ものの考え方や嗜好:ハビトゥスがある、と感じることがあります。それが「大学院入試は情報戦」ということを色濃くしているのかもしれません。

大学院入試は外部から受験する人には不利なのは、単に情報取得が難しい、ということだけでなく、研究職独特のハビトゥスがすぐには身につかないものだからです。内部生の受験は制度的に優遇されている大学もありますが、
それよりも日頃から進学先の教授や研究コースにアクセスできること、
考えや習慣に触れることができることが重要な点なのだと思います。

資本がある人の能力が有利になるように能力が定義づけられている。
一方で試験は平等に誰もが受ける機会は開かれているから、頑張れば入れる。
試験や進学が階層を再生産していることになっている可能性がある。
一方で試験は下位階層が上位階層に移動するための入口にもなりえていて、階層間の闘争の“妥協点”になっているとも言える。
、、、私はまだこれらに対して明確な答えを見出せていません。
いづれ何らかの研究テーマとして扱ってみたいとも思いますが、今、私ができることは私のように社会人で大学院進学を考えている人をブログやnoteで少しでも背中を押すことができるような発信をして、情報戦で負けないように応援することしかありません。

それでも一つ言えることは大学院入試の勉強は、
大学入試のような暗記でないこともあって、文章を書くことや企画を考えることなど仕事にも大いに役立つものがある、ということです。
なので努力する価値はある、と思っています。

私の東大大学院進学の体験談はこちらのnoteに限定公開しています。
そちらもよろしければ是非ご購読ください。





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