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民主主義が幸福のモデル?

3年前、私がデンマークに行こうと思ったのは福祉の先進国と言われるデンマークでは誰もが幸福を感じているのだろうかと思ったからだ。ニュースなどで世界幸福度ランキングなる興味深いランキングが発表されるたびに北欧の国々が上位に並ぶ。それを見ながらなぜだろうか、どういうことなのだろうかと疑問に思っていた。
幸福というものは極めて個人的でありそれこそ十人十色の多様な価値観の上に築かれるものだと思っている。世界幸福度ランキングが78億人の共通する幸福というものを定義している?ということが不思議だった。おそらく相当無理をしたランキングなのではないかと思っていた。
デンマークは福祉国家である。福祉というのは公的な扶助による生活の安定や充足ということを指す。つまり公的に幸福を市民に与えている国家ということだ。となるとそのような施策があり、税金をそれに使うということだ。つまり幸福についてのはっきりとしたモデル、定義というものがあるはずだ。そうでなければ施策を実行するための法律が作れない。
デンマークではフォルケホイスコーレという試験も成績もない市民学校に滞在(留学)した。ここは全寮制で食事の心配もない、授業はちゃんとあるが、それよりも100名近い、おもにデンマーク人との共同生活だ。このような生活をしながらデンマークのことを調べるのは、日本に居ながらデンマークを調べるのとは全く異なる。毎日デンマーク語のシャワーを浴びながら(会話自体は英語が多いわけだが)、日本のことを尋ねられたり、日本のことを説明したり、他の学生のいろいろなお国自慢を聞いたりするのである。価値観の全く異なる、自分の常識が全く通用しない環境で見聞きしたものはほとんど自分を無にして受け止めるしかなかった。最初の半年間はとまどいながらも楽しくそういった緊張感にさらされながら過ごした。
そこで目にした自治体のウェブサイトの高齢者尊厳ポリシーについては何度もここで書いたので割愛するが、極めて個人的な幸福というものを納得性を持って説明していたのだった。もちろんそれを理解するにはだいぶ時間がかかったが、最終的に民主主義が幸福のモデルであるという結論までたどりついてしまったのだ。正直これは驚きだった.
この国では民主主義は選挙や議会のような政治的な場面だけではなかった。朝起きてから寝るまで、いわゆる日常が民主主義の場なのだった。なぜそのように理解したかというと、話し合い、対話ということがとても重んじられており、言葉による目に見える形での意思伝達が生活のベースにあったからである。一を聞いて十を知るのではなく、五を聞いて五を知るのである。自分と相手は違うのだという前提のもとで話をするので必要以上に忖度しないし、違う部分はプライバシーとしてお互い触れない。しかしタブーとして話題にできないことは個人的に拒否しなければほぼなく、どんなことでも議論しようというある種心意気を持っていると感じた。言論の自由とはこういう側面があるのかと思ったものだ。
このような習慣、文化がなるほど、自分の人生に責任を負う機会を与えられるという幸福の定義を可能にしたのだろう。互いを違う人間として尊重しつつもタブーを排して何でも話し合う、そのことを意識させるのが実はフォルケホイスコーレの重要な役割だったのだが、幸運にも私はそこに身を置いて、この国の幸福の定義を学ぶことができたのだった。

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