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正解のない問題への批判

批判という言葉は、あまり好きではない。必要悪というくらいさえ感じている。自分のほうには寄せ付けたくないが、自分の中で渦巻いたりすることもある。これはどうしようもないのだが批判と非難をごちゃ混ぜにしているのである。この二つを理屈として区別はできるが、感情的には区別できないのである。3年前に留学したデンマークは日本よりもずっと対話する文化が根付いているが、そのデンマークでも、強い批判を受けた時にどのように対処するか、ということを論じた文献を見かけた。ああやはり人間はそんなに変わらないのだな、と妙に安心したような気持ちになったものだ。確かに対話をすればするほど批判に遭うリスクは高くなるし、対話して信頼関係を作ることが民主主義と個人の幸福を作る基本としているのならば、批判への対処、もしくは批判の仕方といったこともさまざまな実践があるのだろう。私は言葉が不自由だったので残念ながらそこまで感じることはできなかった。
批判というのは何かの対象に対して良し悪しを判断して評価することである。この判断というところがポイントで、今までデンマークの体験を思い返して個人主義や民主主義、尊厳ある日常生活など考えてきているが、まずその最初にあるのが自己決定である。自分の価値観で決めるということだ。日本は世間の価値観=社会規範で決めるのになぜ、デンマークでは個人の自由な意思決定を守ろうとするのか。それはおそらく一人ひとりが全く異なる価値観と背景を持っているという前提があるからである。平たく言えば、てんでバラバラということだ。だから個人の判断は「正解とは限らない」という普遍的な了解があるように思える。一方日本は社会規範という正解を作り、個人がそれに合わせるようにして調和をとる道を選んだため批判というのはいわゆる正解としての色味を帯びているように思う。だから批判を受けると自分が不正解だったように感じてしまうのではないだろうか。デンマークはあえて正解はないというふうに割り切って、対話によって正解に近づこうとしているように見える。これの優れているところは、個人には他人には全く理解不能な部分(プライバシーとも言える)があり、判断はそこから出てくるから、それが正解である保証はない。という説得性だ。その理屈を共有すれば目の前の問題は言葉による対話で解決することになる。
そこでふとヤンテの掟が思い出される。デンマークで20世紀初頭に発表された小説に登場する十戒であるが、一言で言えば、人より優れていると思うな、ということだ。誰かが正解を出すのではなく、皆等しく正解に向けて進むということなのだろう。私はフォルケホイスコーレの中で家庭菜園のグループに入り、張り切ってしまい、結局うまくいかなかった。ヤンテの掟である。一人ひとりが違うから判断も人それぞれ、批判も必ずしも当たらない、それが全ての人がそうであるという意識があったということが自分にとっての大きな気づきであった。

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