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正解を皆で作る

この頃対話について考える。対話は会話の一種であり、価値観をすり合わせる作業であるという。とすれば、私はこれまで発言をするときにあまり対話をしようとしていなかったと気づかされる。レクチャーという言葉がある。講義とか、解説といった意味がある。教える立場と聞く立場が分かれる。一方通行的。自分がそのテーマについて議論できる資格があることをレクチャーしながら発言するような、そんな場を作ろうとしていたのかもしれない。話す方は何でもうなづいてくれるので気持ちがいい。聞く方は何かいいことを聞かせてもらって得したような気分になって気持ちがいい。更にそこにもう一人資格があると自負している人がいると別の論点から議論を始める。ちょっと大きめの声で。そんな空気を自分が作り出していなかったか。そうだよ、それでいいんだよ。という内なる声も聞こえる。そうでなければ合理的、効率的な議論などできないし、全ての参加者に発言は制限されているわけではないのだから。自由に発言できるのだから、と。

まさか、こんなことを考えることになろうとは思わなかった。議論はバトルである。戦いである。正しい主張を通すべきだと、人格をかけて戦うのだ。そうやってずっときた。来たのにしかしデンマークの滞在で、自分を見つめる時間をもらったとき、授業で答えのない質問を数多く投げかけられたとき、ようやく思考のスピードを落として細かく丁寧に気持ちのひだ(しわ?)を感じながらたどり着いた言葉がある。

正しい主張は誰が与えてくれるのか?

この時の率直な気持ちは正解を教える教育をされてきたんだなあということだった。それはそれはしみじみ思った。たわいのない会話なら、なんでもないのだが、対話する、議論をするときは人格をかけたバトルをするか、場外から様子を見るか、そのどちらかを選んできた。おそらく。そしてバトルができるように知識を携え、アグレッシブに行動して経験を積み、育ててくれた社会に恩返しをするつもりで正しい主張をしようとした。日本ではそれをかなりの度合いで「良し」とする、そのような社会規範がある。だがそれにはどうも、盲点があった。それは弱者の視点から気づかされた、正解のない問いへの対応といえばいいのか。正解を皆で作るという、シンプルな様式だ。私はそう簡単に変わることはできないが、せめてこの「正解を皆で作る」ためにその場で何をすべきか、ということを今は考えなければならなくなっている。

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