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感情の動物

やはり自分の感情に気づくのは難しい。頭ではいろいろ分かったつもりになっていても、感情に支配されている状態がわからないので、行動がうまく取れないし、それに気づかずにさらに感情的になる。たとえば、いくつか仕事がたまっているときにデンマークのことを思い出しながら文章を書こうと思っても気が急いているのでじっくり思い出すことができず、余計にイライラする。かえって時間を潰してしまう。

たまに、そんなときに自分の気持ちを言葉で表現してみようと思いつくことがある。この時はこれがトリガーとなって自分の状態を把握することができ、良いコンディションに持っていくためにするべき行動を考えることができる。自分を観察することで感情に支配された状態から抜け出すことができるわけだ。これはまさに、フォルケホイスコーレで何度も言われた、「自分をよく観察して最高の状態を通常の状態にしなさい」ということだった。

このことは自分の不調の時だけに当てはまるものではないこともわかってきた。つまり、自分が感情的に物事を判断し、自分を見失っている時間が非常に多いということだ。まさかそんなことはないと思っていたのだが、自分の行動を思い返してみるといくつも思い浮かぶ。例えば、誰かが地域の活動を提案したとすると、その活動の意義を考える前に、それを言い出した人のことを考えて、やる気が出たり嫌気がさしたり、それはそれは大きく気持ちが揺れる。またたとえば、自分が何かをしようとすれば、こんなに意義のあることをしようとするのだから反対意見など出るわけがない、とそんな気持ちが湧いている。このように自分はちっとも冷静ではないのだ。

そのことに気づけただけでも前進なのかもしれない。しかしこんなことでは平等だのデモクラシーだの実践できるようになるまでの道のりは長い、もしくは生きている間には無理かもしれないとさえ感じてしまう。一つの救いは時たま自分を観察する機会を得られたときに、スッキリすることだ。不安が限りなく小さくなるような気がする。そして大抵小さな行動を思いつく。考えているだけではダメだとスイッチさせてくれるようなものだ。小さな行動を実行することで、自分の足で一歩踏み出せたような気持ちになり、そこから歩いていけるような感じになる。

このような自分の観察は自分の生活に意味を与えることだと思う。そして平等感にも影響を与え、デモクラシーの生活につながって行きそうだ。

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