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老害という認知

私のような高齢者が「老害」という言葉を持ち出すときは大方「そんなことはない」という文脈になりそうだ。いや、持ち出すこと自体が滅多にない。なぜなら自分が「老害」になっているという認識はほぼないからだ。私は最近、この世代間のギャップというものを考えることが多い。良し悪しの判断なく、表現しようとすれば、若い世代は経験や知識は不十分だが、活力が高い。一方高齢世代は気力体力が下がっていて価値観や理屈が固定化しているが、生きてきた年数分の経験と知識が蓄積されている、といったところか。
老害というのは一つの認知である。「害」とついてしまっているので悪いという判断が付け加えられた認知である。善悪の判断は人それぞれの価値観によって決まるから、この言葉は老人に向けたかなり曖昧な認知である。一つ特徴的だと思うのは、年齢による序列の感覚が入っているということだ。日本はデンマークのようにフラットな人間関係ではない。1歳でも年上なら、序列がつく。したがって、年齢が上というだけの理由で序列がつくことと、法のもとに平等であるということの一種矛盾のような感覚が入り込んでいるように思う。
とはいえ、デンマークのような平等は、それはそれで結構難しい。私は2年前デンマークから帰国した直後に、一緒に学んだデンマークの学生たちにアンケートをとったことがる。インターネットのおかげでこんなことがたやすくできるようになったのはありがたい。そのアンケートは「平等ということをどのように教わりましたか」と問うものだった。多くの学生は「誰でも同じように扱われなければならない、また扱わねばならない」と答えてくれた。そのカギになるものが「人と比較せずに同じように尊重する」だと思うが、その難しさは想像に難くない。うっかりすると、既存の序列に甘んじて分相応の働きに徹するのが楽だと思ってしまう。
老害は感情的な要素を含んだ一つの認知である。それは序列社会に因るところが大きいが、それに甘んじている現実もある。老人には老人の、若者には若者の特性がある。感情的な判断を入れて認知するか、無機、つまり判断せずに認知するか。ということだ。一つ言えるとすれば、判断せずに認知する方がエコだ。あまりエネルギーを使わなくて済む。

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