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デモクラシー幸福論

何度も問い返している言葉の一つが、「民主主義」である。3年前デンマークのフォルケホイスコーレに滞在して10ヶ月間デンマーク人と共同生活をして、当初は「尊厳」とか「高齢者の生活」といったことにフォーカスしていたのだが、最終的に「民主主義」がその中から浮かび上がってきたという感じになった。コロナ禍での帰国直前のことである。民主主義というと何か改まった、仰々しい、少々堅苦しい、重要なことはわかっているが、自由に発言できたり、多数決でものごとを決めたりするようなことだろうと漠然と感じ、そのように自分は教育されてきたのだというふうに思っている。民主主義の基礎となる三権分立だとか、議会政治だとか、言論の自由だとか、知識としてはテストに出るということで一生懸命詰め込んだような気がする。知識として、である。だから、自分の身の回りの日常生活に民主主義が根付いているということにあまり気がついていなかったし、あまりそのように感じてもいなかった。そしてそのような曖昧な感覚が当たり前のことだとしてスルーしてきていた。実はこの行為が民主主義を後退させてしまうかもしれないということさえ気がついていなかった。
2年前デンマーク留学を終えて帰国した時、人生の幸福は民主主義にあるというちょっと飛躍した結論を持っていた。しかしそれは2年経った今もあながち早とちりだったとは思えない。民主主義を基本とする日常生活が幸福をもたらすという一つのモデルが確かにデンマークにあったような気がしているからだ。英語ではデモクラシー、デンマーク語ではデモクラティという言葉ははるかに日本より大事にされていたような気がしたものだ。
日本はどう見たって序列社会である。敬語を使い立場を重んじ序列に応じた役割と責任を求められる。背中で語るといった非言語的なコミュニケーションも多い。だがこれは不幸かといえば、必ずしもそうではない。例えば幸福の国、ブータンも厳然とした序列社会である。しかしデータはここにも幸福のモデルが存在していることを示している。だからあくまで北欧の幸福は一つのモデルであって、他にもたくさんの幸福のモデルはあるのだろう。ただ、一つのモデルに固執できない状況が世界にはある。よその国が幸福そうに見えるのは自分が持たないものが魅力的に見えるということだ。それが情報社会では非常によく見えるようになったということだ。だからよく見たほうが良い。漠然と羨むのではなくしっかりとすみずみまで見るのだ。
北欧の民主主義は個人の決定を尊重する徹底した平等を軸にしていると思うが、それは相手を尊重するということにおいては日本の序列社会でも同じである。敬い労う関係は少々洞察力を必要とするが、役割を尊重することではないかと感じる。デモクラシーが幸福のモデルになるなら、日常の中にデモクラシーを見いだせるかどうか、尊重しあい信頼関係を築く努力をしているかどうか、実はそこに鍵があるのではなかろうか。

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