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1次元の世界

久しぶりに外出して仕事をした。いまやネットでも顔を見ながら話ができる。と思い込んでいるわけだが、私が訪問したのは視覚障害の方のお宅。目が見えない分晴眼者とはコミュニケーションの方法が若干異なる。視覚情報を使わないコミュニケーションだ。ネットは必要だが、画面があっても意味がないのだ。私はパソコンの指導という形で障害者の方のお宅に伺うのだが、そこではマウスとディスプレイは「オプション」である。だから伺うとまずディスプレイの電源を入れる。あくまで私が見るためだ。マウスはパソコンがキーを受け付けなくならない限り使わない。それがこの方の環境だからだ。

私はデンマークに滞在した中で随分と平等について触れたのだと思う。帰国して遅ればせながらそのことに気づいているが、あちらでは確かに平等というものが根付いていた。彼らはデンマークをスーパーフラット(超平坦)な国だと言っていたが、地形だけでなく人間の扱いに対してもスーパーフラットだった。その関係が障害者であっても同じかどうか。その辺りは当初はっきりとは分からなかった。しかし今は少し理解できる。それはデンマークの自治体のWebサイトに高齢者尊厳ポリシーとして載っていたものだが、弱いところは適切にサポートするとサラッと書いてある。誰であろうと弱いところ(Vulnerability)があるから、それには専門的な訓練を受けた人が注意深く本人の自立的な生活に配慮しながらサポートするとある。特別なことでは無いように見えるが実は、この「誰であろうと」というところが私の中に響いた。

デンマークは障害者と健常者を区別しなくなった国だ。それは「誰であろうと弱いところがある」ということを、かなりの勇気を持って認めた結果ではなかろうか。身体障害、視覚障害など目に見える部分が「弱いところ」である人もいるし、内臓などみえないところが弱い人もいる。さらに精神的に弱いところがある人もいるかもしれない。日本では具合の悪い時は病院に行って病名をもらうとホッとするということがある。自分を一つの範疇(グループ)に分け入れたことで自分は少しだけ特別な何かになり、それを治療するために特別な何かをする権利がある、というようなものだ。もちろん科学的に解明されて患者が幸せに人生を送れるようになるのなら問題ない。だがそこに、少し、少しだけそこに差別を希望する意識を感じてしまう。

視覚障害者(全盲)の方のパソコンにディスプレイは要らない。そのかわり聞き取りやすい滑らかに音声を再生できる高性能な音響システムが必要だ。画面の画質にこだわることと滑らかな音質にこだわることはそれぞれにとって同じことだ。自分には関係ないかもしれないが、それにこだわる他人は自分と平等ということなのだ。パソコンを音声で聴くということは2次元の画面ではなく、1次元の音声でパソコンを見ることに他ならない。平等を考える時、そのようなパソコンやそれを使う人がいるということを無視せずにいられるか、ということが問われる。そして自分には想像もつかないようなことがまだまだあるということを覚悟しておかねばならない。平等は大変だ。そして大切だ。

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