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個人主義と自分主義

最近、私は妙に落ち着いていることに気づいた。心安らかに毎日が充実している、のならいいのだが、ちょっと違う。それは3年前にデンマークのフォルケホイスコーレに行く前の、それまで58年間慣れ親しんできた生活に心身ともに戻ってきたということのようである。そのころは今思えばゆとりのない生活だった。時間が足りないわけではないが、何か追われているような、必要以上に求められているような、それでいてそれに十分に応えていかなければならないような、そんな急かされているように感じる日常だった。そしてそれが普通で良いことであると思い込んでいた。忙しいうちが花だ。そんな言葉が頭の片隅に浮かんでいたのかもしれない。それがデンマークに行って、それもフォルケホイスコーレという急かされる忙しさとは無縁のところに10ヶ月も滞在してきた。日本からは8000キロ以上離れた別天地である。そこで私はようやく今までの生活が一つの選択肢に過ぎなかったということを身をもって知った。敢えて大きく二つの選択肢を挙げてみるなら、デンマークは個人主義の生活、日本は自分主義の生活と言えると思う。個人主義とは個人の行動を尊重するものであり、自分主義とは自分の評価を尊重するものである。なんだかピンとこない気もするので少し具体的に書いてみたい。
よく、個人主義の国では自分を主張しないといけないよ、と言われる。確かに個人主義の先進国と言われるデンマークでは自分の意見を求められることが多かったし、授業中の挙手発言も多かったし「あなたが決めなさい」という言葉も先生がよく発していたように感じた。しかし、それで発言したり行動する内容をよく見てみると、自分の意見や決定とはいえ自分の持論を展開して好き勝手なことをするのではない。そのテーマについて自分が貢献できることに絞って意見を述べて行動しているのである。だからその意見や行動は尊重されるのだ。考えてみればごく当たり前のことである。日本でも話し合いをするときに自分が貢献したいという意味のことを発言することはある。黙々と人のために作業して(貢献して)いる人もいる。それを見聞きするとその人の印象が少し変わって尊敬の念を抱いたりする。デンマークと同じようだと漠然と思っていたのだが、実はすこし異なるところがあった。日本では今テーマに挙がっていることに貢献するというよりは、社会全体であったり、お世話になった方々に対して貢献するというように見えるのである。つまり貢献するという言動がその人の評価を上げることにつながっているようにみえる。うがった見方と言われるかもしれないが自分がそうだったし、今も無意識のうちにそうなっているのだろうと気づいているのだから仕方ない。私が自分主義だと言っているのはこれである。そして自分の株を上げようというのは序列をつけることである。自分が上がれば他人が下がる。相対的に。そしてその評価は大なり小なり社会が決める。ここでもし平等という言葉を使うならば、他人も同じように自分の株を上げようと平等に競っているということだ。その中でどうやったら他人を尊重できるだろうか。まったく自分と違う畑にいる人ならいざ知らず、近くにいる人と平等にいられるということは難しい。
デンマークで感じた個人主義は、言動がその人の評価を高めるかどうかよりも、そのときテーマに挙がっていることに対して貢献できているかに注目する。目の前の課題を解決するために平等に知恵を出し合うことが基本だからだ。私が思い出すのは、フォルケホイスコーレの農園グループに入った時のことだ。家庭菜園の経験があったのでそのつもりでいろいろ知識を披露してしまい、グループが学生全体で楽しめるイベントを考えたいというテーマについて全く貢献できなかった。(もっとも今頃になってそれがわかってきたのだが。。。)これは自分主義の、また不完全な典型である。
自分主義でも環境が整っていれば、うまくいく。環境を整えるのが大変ではあるが。一方で個人主義では環境が整っていなくてもうまくいく。しかし個人の責任が重大だ。どちらも大変なことには違いない。世の中、楽はできないようになっているものだ。

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