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納得するのは面倒くさい

今日もふと浮かんできた言葉がある。毎日毎日沼の底から小さな泡つぶが上ってくる如く、ひとつ、ふたつと浮かんでくる。このようなことが起きるのは、デンマークに10ヶ月間、フォルケホイスコーレという成人向け学校で寮生活を送りながら人生初めての異なる価値観と社会の中で生活したことで、今まで自分が疑いもなく受け入れてきた様々なことをもう一度見つめ直さなければならなくなったからだ。これは不思議なことだが、そんな面倒くさいことをしないという選択肢が自分にはない。あたかも催眠術にかかった如くそうしなければならないのだから始末に負えない。

それで今日浮かんできたのは「納得」だ。巷では選挙戦真っ最中である。そこでよく聞くのが「国民の皆様にご納得いただけるような」とか、「丁寧に説明して納得していただく」とか、「納得」という言葉の入ったフレーズである。「納得する」とは、他人の考えや行動を理解して受け入れる、肯定するという意味である。ただ、受け入れるとか肯定するというのは、どこまでの範囲のことなのだろうか。

私は「納得する」のが苦手だ。それはある人の意見に納得したとなると、その人の人格を受け入れたような気持ちになりそうで、うかつには納得できないという警戒心が生まれるからだ。本来は納得できる範囲を対話によって明らかにして双方がその範囲内で納得するのだろうが、対話がなかなかできない私はその範囲の特定ができないので慎重になってしまう。ただ、そう感じるのは私だけではないようにも思う。つまり選挙や政府の会見などでも国民には丁寧に説明し、納得してもらうという姿勢が見え、国民とは説明され、納得さ(せら)れる存在のように感じる時があるからだ。

自分が納得するということは、自分の意思と価値観に照らし合わせてそれを損なわないということだ。万民同じ説明を受けるだけで納得することはどう考えてもありえない。それは価値観が一人ひとり異なるからだ。同じ説明でも受け取りが違う。個人の価値観との方向性の一致具合も皆違う。それを押し切られるように納得させられることがあるとすれば、個人の人生の幸福を追求するという権利を一部放棄しているようなことにならないか。そうは言ってもそんな相手を論破するほど頭は良くないし、気力も勇気もない。第一面倒くさい。例えば選挙で誰が当選しても自分の希望とはだいぶ違うがそこそこのことはしてくれるのだろう、などと諦めている部分もある。

これは納得というのだろうか。私の抱える問題は二つあると思う。一つは面倒くさいと思うこと。もう一つは合意でないこと。面倒くさいと思うのはやはり日常が忙しすぎるためだ。本当に忙しいのか気ぜわしく感じているのか、このnoteを書く時間が確保できるのだから、時間を安心して使うためのスキルが不足しているのだろう。予定が入っていないと不安だ、とか、休んでいる暇はないというような脅迫的な気持ちもある。また、合意とは、納得するために必要な手続きだと思う。説明する側もされる側も自分のこととして合意形成することで納得は生まれる。一方通行の説明ではどんなに細かく説明されても眠くなるだけだ。対話だ。ここで対話がどうしても必要になる。

60年生きてきて驚くべきことにこんなことを考えたことはなかった。本当に驚きだ。せめてこの国政選挙では納得を意識して投票したいと思っている。

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