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日本の2大「ビールメーカー」の起源 ボンドのコニシ!

■「ボンドのコニシ」と日本のウイスキー

前回の記事のおさらいです。

意外な関係! 「ボンドのコニシ」とウイスキー|チャーリー / ウイスキー日記|note

・日本でウイスキーづくりをはじめた寿屋(現サントリー)の創業者:鳥井信治郎は、薬種問屋:小西儀介商店の丁稚奉公が、社会人人生の始まり。

・当時の薬種問屋は、ビール・ウイスキー・ワインなど、様々な洋酒を扱っていた。

・鳥井信治郎は、小西儀介商店で「酒類の知識」や「調合」などを学び、後に独立。赤玉ポートワインの発売で成功し、日本初の本格ウイスキーづくりに参入した。

・鳥井が修行した小西儀介商店とは、今の「ボンドのコニシ」である。


■「ボンドのコニシ」の沿革に気になる記載が・・・

沿革|企業情報|コニシ株式会社 (bond.co.jp)

コニシ株式会社HPより
1884年 (明治17年)アサヒ印ビールを製造

え? アサヒビール??


■アサヒビールの沿革

アサヒグループホールディングスのHPから沿革を確認してみたいと思います。

歴史・沿革 | 企業情報 | アサヒグループホールディングス (asahigroup-holdings.com)

1889年11月  
鳥井駒吉が大阪麦酒会社(現アサヒグループホールディングス株式会社)を設立

1891年10月  
吹田村醸造所(現アサヒビール吹田工場)竣工

1892年5月  
「アサヒビール」発売

大阪麦酒の創業者:鳥井駒吉は和泉国(現在の大阪府西南部)で、1853年に生まれました。実家は、米穀商をしていた本家から分家した「造り酒屋」で、日本酒「春駒」をつくっていました。
そして、実家を継いだ駒吉は1879年には、堺の酒組合の初代総代を務めるほどの実業家でした。

ちなみに、サントリーの創業者は鳥井信治郎(現・大阪府中央区の両替商&米穀商をしていた商家の次男として1879年に誕生)であり
「鳥井姓」で、
「大阪府出身」で、
「実家が米穀商の流れを汲む」ので、
かなり似通っていますが、この両者には、親戚的なつながりはないようです。また、時代が四半世紀くらいずれていますので、接点もなかったと思われます。

さらに話は横道へ外れますが、大阪麦酒の吹田工場は、日本人で初めて本場ドイツ・ミュンヘンでブラウマイスターの称号を得た大阪麦酒の醸造技師:生田秀がプロデュースした工場で、当時、世界でも最新鋭のビール醸造所でした。この詳細も色々と記事化したいことがありますが、今回の本題でないので(そもそもウイスキーの話題でもないですが)、話を戻します。


■小西屋と大阪麦酒の年表をガッチャンコすると

いくつかの文献と、NETの情報を組み合わせると以下のような年表になります。

1884年  
小西屋(後の小西儀介商店)がアサヒ印ビールを製造・販売。河内産大麦と輸入ホップを使用。

1887年 
この頃、国産ビールの会社の数がピークに達する。

1888年  
小西屋がアサヒ印ビールの製造を中止
小西屋が大阪洋酒醸造会社を設立。ビール・ブランデー・ウイスキー・アルコールなどの製造販売。「赤門印葡萄酒」の製造販売を手掛ける。
 ↓
小西屋の方針がビールから、ワイン・洋酒へ?

1889年
鳥井信治郎が小西屋(小西儀介商店)へ丁稚奉公に入る。
鳥井駒吉大阪麦酒を設立

1891年
大阪麦酒が吹田工場を竣工。

1892年
大阪麦酒がアサヒビールを発売

ちなみに、日本初のビール醸造所は、ユダヤ系のローゼンフェルトが、1869年に横浜で開業したジャパン・ブルワリーにはじまります(5年ほどで廃業)。
日本人経営者によるビール醸造所は、1872年、渋谷庄三郎が大阪・堂島で開業した「渋谷(シブタニ)ビール」が最初です(1891年撤退)。

今の大手ビールメーカーへと繋がる醸造所としては、1870年に横浜でスプリング・バレー・ブルワリーが開業(今のキリンビールへと繋がる)。
1878年には北海道に開拓使麦酒製造所(今のサッポロビールへと繋がる)が開業しています。

ただ、それぞれの醸造所で、明治期には運営母体が目まぐるしく変わっているので、現在へ直接繋がる経営法人が立ち上がった時を「創業年」とした場合、

・麒麟麦酒株式会社の設立は1907年
(キリンビールという商品は1888年発売)

・札幌麦酒会社の創業年は1887年
(サッポロビールという商品は1877年発売)

話を戻して、ガッチャンコ年表をみると、1888年に小西屋が「アサヒ印ビール」の製造を止めて、1892年大阪麦酒「アサヒビール」を販売する間に、同じ大阪の酒類製造会社同士として「ブランド権の移管」的なやりとりがあった可能性が高いと思えます。

この「小西屋(小西儀介商店)のアサヒ印ビールが、大阪麦酒のアサヒビールへとつながっていく」という点は、ごくわずかな文献に簡素な一文で書いてあるのと、NET情報でわずに書いてある程度で、イマイチ真相がわかりません。

なので、かつて、コニシ株式会社のお客様相談センターに電話して「御社のHPにアサヒ印ビールと書いているが、それが今のアサヒビールになっていったというようなNET記事を見かけたが、それは本当か?」と聞いてみたことがあります。
(自分で言うのもナンですが、相当なマニアですね・・・)

電話口のお兄さんからは「はい、そうっスよ」という回答でした。

具体的なところ(ブランドの売却か? 製造設備も売却か? 製造スタッフも移籍か?)は、お聞きしませんでしたが、ビール業界の大局的な見地としては「小西屋→大阪麦酒」いう何らかの流れがあったようです。


■やっぱりすごいぞ! ボンドのコニシ

ボンドのコニシは、サントリー創業者の鳥井信治郎が、洋酒の修行した薬種問屋:小西儀介商店の現在の姿です。鳥井さんはその後、日本発の本格ウイスキーづくりへ参入します。

したがって、「ボンドコニシ=小西儀介商店」がなければ、日本のウイスキーの歴史は始まっていなかった、もしくは違う形となっていたことでしょう。

一方で、「ボンドコニシ=小西儀介商店」のアサヒ印ビールの撤退がなければ、その後、大阪麦酒から発売されるビールのブランド名も、違うものとなっていたことでしょう。

そして、ウイスキーづくりに参入した寿屋は、ビールつくりに本格参入すると同時に、社名をサントリーと変え、大手ビールメーカーの一角を担っています。

日本の「ウイスキー産業の歴史」に、そして日本の「2つの大手ビールメーカーの歴史」に大きな影響を与えた「ボンドのコニシ=小西儀介商店」。

小西儀介、只者ではありませんね。

そして、今回、コニシ株式会社の沿革を確認していたら、日本人なら「ボンド」と言えばすぐに頭に浮かぶ、あの「黄色いボトル」に「赤いキャップ」の『ボンド 木工用』が、2007年に立体商標を登録していることを知りました。

やっぱりすごいぞ! ボンドのコニシ!!

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