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《アメリカ禁酒法》 最強のお酒密売者 弁護士ジョージ・リーマス

■禁酒法時代、捨てることのできなかったウイスキー

禁酒法が始まるとビールを中心に、密造されたお酒は排水溝に流されました。

アメリカ合衆国における禁酒法:
Wikipediaより

アメリカ合衆国における禁酒法 - Wikipedia

ただし、高級バーボンライウイスキーは流されずに保税倉庫に保管されていました。
法律上あくまで私有財産であるそうしたウイスキーを、政府は押収できなかったからです。 

さすが法律の国、アメリカ!

そして、こうした保税倉庫のウイスキーは警備の緩い地方に行けば、コソ泥が盗むことができました。

政府はこの窃盗対策として、「統合倉庫」をつくり、292の保税倉庫に分かれて保管されていたウイスキーの中味を10ケ所に集め、警備員に集中的に見張らせるようになったそうです。


■医療用ウイスキー

アメリカ禁酒法の時代、「医療用ウイスキーの販売は禁止しない」という抜け道的な条項が、禁酒法の中にありました。

ウイスキーが万能薬として信じられていた19世紀の名残を残すものです。

この「医療用ウイスキー」として、アメリカへの輸出に成功したスコッチにラフロイグがあります。

ラフロイグは、そのあまりに強い個性(強いピート香=正露丸のようなヨードの香り)のため

ラフロイグって、こんだけ臭いので
ウイスキーじゃなくて、お薬なんですよー!

と主張して「薬用ウイスキー」として、禁酒法下のアメリカへの上陸に成功します。


一方で、アメリカ国内の一般消費者も、医師の処方があれば、ラベルに「医療目的に最適」と但し書きが追記されたバーボンのボトルを手にすることができました。

そのボトルは、きちんと禁酒法以前のように正規の蒸溜業者が詰めて、保税倉庫に保管されていたものです。

こうして、禁酒法下でも「薬用ウイスキー」という抜け道的なウイスキーの出荷が認められていたので、政府に認められていた大手6社は、こっそり営業し続けることができました。

これについては、以前に記事にしています。

アーリータイムズ 発売から禁酒法まで《アーリー②》 | 記事編集 | note

最初は保税倉庫に残された在庫を出荷するだけでしたが、1928年にその6社の在庫がほぼ底をついたときに、政府は自ら特例条項を通して、追加でウイスキーを生産させました。

それだけ「医療用ウイスキー」に需要があったということですね!


■禁酒法の条項を読み込む弁護士:ジョージ・リーマス

弁護士のジョージ・リーマスは自分の担当する裁判の被告人である密売人たちが、大金を持っているのを知っていました。

こいつら、下っ端の密売人ですら、自分には比べものにならないくらい大金を持っている!

その親分だったら、どれだけ稼いでいることか!?

リーマスは、まじめに弁護士をやっているのが、馬鹿らしくなります。

そこで、リーマスが目を付けたのが禁酒法の「医療用ウイスキー」の項目です。

すでにお伝えした通り、医師の処方があれば一般人も合法的にウイスキーを手にすることができました。

この処方は、医師だけでなく歯科医獣医にも同じ権限が与えられていました。

そして、青年時代に夜間のロースクールに通いながらおじの薬局で働いていたリーマスは薬剤師の資格を持っていたのです。

リーマスは、ピンと来ます。

合法的に、儲けてやろうじゃねーか!


■リーマス、攻めの薬用ウイスキー販売

リーマスは、まず蒸溜所を買収してオーナーとなり、敷地内の保税ウイスキーの法的な所有者になりました。
そして、それを皮切りに次々に10もの蒸溜所を買収します。
その中には、あのジャックダニエルの蒸溜所もありました。

次に、リーマスはドラッグストアを買収します。

そこで、ドラッグストアの店舗毎に割り当てられる「医療用ウイスキーの販売許可番号」に則って、自社のウイスキーを保税倉庫から運び出し、医療用市場で売り始めたのです!!

かつての薬剤師の経歴を活かした、完全に合法なビジネスです。

すげーことを考えるな、リーマス!

この方法で、リーマスは禁酒法時代の初期の数年間、お酒密売の業界でもっとも幅を利かせていた有力者となりました。

当時は、後にカナディアン・ウイスキーの密売で名をはせるアル・カポネは、まだマフィアの下済みの時代です。


■リーマスの豪遊ライフ

1921年の大晦日、ギャッツビーのモデルと言われるのも納得できるような豪勢なパーティーを開いた。31部屋を有する豪邸で、本格的なプールがあり、それだけで10万ドルをかけていた。フルオーケストラの演奏を聴きながら、100組のゲストが熱気に包まれた豪邸で年の変わり目を祝った。(中略)

空が白みはじめた頃に階下に戻り、まだ居座っているゲストたちが豪華なパーティー土産について噂し合っているのを見て、彼らが外に出たら土産を確かめられるように、使用人に言ってゲスト全員に上着を返した。

そうして連れ立ってドアの外に出た一同は、朝日に目をしばたたかせながら、100台の真新しい車がずらりと前庭に整列しているのを目にしたのだった。

バーボンの歴史 P258(一部を省略等しています)
原書房 リード・ミーテンビュラー著

リーマス、半端じゃない超豪遊ライフです!


■そして、非合法取引へ

リーマスは合法的に、政府が許可した医療用ウイスキーの販売許可証のもとで事業を始めましたが、すぐに非合法なやり方に手を染めます。

まずは、

・販売許可証が足りなくなったので、役人を買収して発行させる。

そしてついには、

・ドラッグストアでの合法販売でなく、闇取引をはじめる。

ここまでくると、明確な犯罪です。

闇取引では、自社傘下のジャックダニエル蒸溜所で、部下に木樽の栓を抜かせて、ホースとパイプで中身の原酒を抜き、外に待機させていたトラックのタンクに流し込み、闇市場で売りさばいていたそうです。

保税倉庫の原酒がなくなると当局から突っ込まれますから、空になった樽にはを入れておきました。

もう無茶苦茶。


■そして、悪者は捕まります

非合法商売での荒稼ぎに一直線となったリーマスは、アメリカ司法長官を買収しようとしたり、色々な画策をして逮捕や訴訟の有罪判決を逃れようとします。

しかし、結局は
「策士 策に溺れる」
で逮捕、有罪・服役。

その間に、自分を助けてもらうように動かしていた人物に、奥さんを奪われてしまいます。

そして、それに怒り狂ったリーマスは、出所後にその奥さんを射殺するのです。

ただ、この殺人罪については「心神喪失」ということで無罪となります。

◇当時のシンシナティ・ポスト紙
シカゴの密売人、シカゴ流の評決を勝ち取る

「シカゴ流の評決」という表現が、この無罪判決への一般市民の偽らざる受け止めだったのでしょう。


■リーマスの晩年

比較的穏やかな余生を送り、1952年(禁酒法撤廃は1933年)、静かにこの世を去ります。

◇当時のシンシナティ・アンクアイア紙
伝説のジョージ・リーマス逝去、巨万の富を築いた密売王

ザル法と呼ばれ、あらゆる面で整合性が取れていなかったアメリカ禁酒法。

結局は撤廃されるわけですが、その禁酒法時代は、約14年間も続いたのです。

ちなみに、日中戦争の開始から第二次世界大戦終結まで、約8年。
真珠湾攻撃から第二次世界大戦終結まで約4年。
なかなか長い時間ですよね、14年。

《参考》
バーボンの歴史 原書房 リード・ミーテンビュラー著

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