「つく、きえる」観劇・shelf @ Theatre e9
何度目かの妻の誕生日である昨日、京都市の南の外れにある東九条の「シアターE9」で「シェルフ」という劇団の「つく、きえる」という演劇を鑑賞した。
事前情報をすべて絶っていたので(実際はただ何も読まなかっただけ)劇団のことも演出家のことも、もちろん芝居の内容のこともまるで判らずに座席に身を置いた。
ブラックボックスの舞台上には7台の椅子が置いてあり、その前に靴やパンプスや衣類が放置されている。だけ。
開演すると舞うような動きで演者が袖から現れて、それぞれの椅子に座る。
男4人、女4人。皆違う性質を持つ。
独白とプロジェクション によるテキストを追ううちに少しずつほぐれる、そして紡がれる物語。
「つく、きえる」と言う電灯の明滅がセリフで言い表されたときに「これはディザスターの物語だったのか」とようやく気づく。いや、気づいてはいたのだけれど、そうであってほしくないと思って観ていたのだ。
「いわき」と言うワードが2回(3回か?)出てきたときに「そうじゃないといいなぁ」と思ったんだよ。
でも、それだった。
具体的には言わずともそれを伝える。表現のすごさを感じつつも、あの震災がそれだけ(ちょっとしたスイッチを押すだけで記憶を呼び覚ますほど)僕たちに傷を与えたのだと言うことにも改めて震撼する。
観劇中盤くらいから、どことなくいとうせいこう氏の芥川賞候補作「想像ラジオ」の世界観との重なりを感じてきてしまっていて、「良くない。先入観を持って他の創作物を見るのは良くないぞ」と思いながらもその気持ちが払拭できなかった。
でも、結果的にはこの重なりを意識して脳内サブテキスト的に観劇するのは僕の理解の助けにはなった。
物語は進む。
死を連想または死に直結するような独白をしながら変容(変態?)してゆく登場人物たち。
彼ら同士が交わったり分かり合えたりすることはない。
死が救いとなる物語なのか?
それも判らない。
乱雑に脱ぎ捨てられた靴たちが終盤に綺麗に並べられていくのは死を象徴した演出なのだろうか。
乱雑さの中に生を見、静謐の中に死を感じる。
様々な感慨が交錯する。
こう言う演劇は直後には感想が言えない類のものだ。
人生を重ねるにつれて自身の中での意味が構築されたり解体されたりと変容しながら解釈し定着し記憶になるタイプの演劇だと思う。
日曜日(2019.12.15)までやっています。
※「想像ラジオ」も東日本大震災を題材にした奇抜な物語なので、未読の方は是非読まれたし。
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