旅、40日目 病と対峙する
旅、40日目です。
昨日の投稿で、相方さんと鳥舞を舞ったと書いたところ、コメント欄で、これが舞えるなら病人じゃない、という言葉をいただきました。
病気の深刻度と自覚症状が一致しないのがありがたいのですが、昨日看護師さんと交わした会話もまた真実。
「体調はどう?」
「治療中断で副作用もないし、この一ヶ月でいちばん元気です!」
「それって治療的にはどうかと思うわよ。」
そうですね。病気を軽視しているわけでは、決してございません。
ですが、病気の時に安静第一、というわけでもないでしょう。
そう思い、手元の本を開いてみました。
火事場の馬鹿力というけれど、切迫した状況下では、普通では考えられないような力が出ることがある。
でも、必ずしもそういう状況に置かれなくても、人間は潜在的に持っている力を発揮することができる。
それなのに、病気にかかると、本人は周囲に過度に依存し、周囲は善意によって親切を押しつける、ということが起きがち。
でもそれは、何が正しいのか、何が適切なのかの判断が難しいからだと思うのです。ではどうすればいいのでしょうか。
病気の恐ろしさを軽視するのは問題外。
でも、体の全てを医療機関や薬、治療に丸投げするのもおかしい。
専門家は、その道の専門家だが、他の道は不案内であることがままある。しかもその道は、こちらが思っているよりかなり狭い(気がする)。だから情報収集やセカンドオピニオンで、より納得できる道を模索することがとても大切。
そうした努力をした上で、最後は自分の体を信頼し、逃げず、全力で向き合う努力をしよう。
そしてもう一つ、最近よく思うのが、これまで過ごしてきた時間の中で関わってきた人との縁は、なにものにも変え難い大きな力になるということ。
病気が発覚し、最初にお世話になった病院で提示された治療方針を丸呑みして受け入れようとした私に、たくさんの人が手を差し伸べてくれました。
座り込んでいた私を、両腕を掴んで今すぐ動けと叱咤してくれた人。
受け入れるだけが道ではないと、穏やかに言葉をかけてくれた人。
無為の時間を埋めるべく、他愛ないやりとりにつきあってくれる人。
平素と変わらず愚痴を語ってくれる人。
黙って不安の声を受け止めてくれる人。
あたたかい言葉と心尽くしの差し入れを贈ってくれる人。
復帰できない可能性が高いと知りつつ、辞めるな、待っていると説得してくれた職場の上司たち。
今、私は、周囲に支えられながら、これまで生きてきた中で培ってきたものを総動員して、病に向き合っています。経験せずにすめばラッキーだったけれど、病を得なければ、立ち止まることもせず、今でも仕事に家事に忙殺される日々を送り続けていたはず。それは、過ぎ去った時に果たしていい人生だと言えたでしょうか。
annonさん宅の庭に住むアマガエルが、こんなことを言っていました。
アマガエルの声に耳を傾けて、よりよい果につながるよう、まず今日を生きるとしましょう。
おまけ
冒頭に、巳白さんがデザインしてくださったポップアップ用の画像のカメハナを載せました。私が習い覚えた亀の舞のお囃子に、こんな一節があります。
亀が甲羅干しをするのは、体をあたためるため。そして紫外線を浴びることで、体内でビタミンを作ったり、甲羅を丈夫にしたりするため。
甲羅干しは、亀にとって生きるための必死の行動だけれど、傍から見れば、平和でのどか。
そんなふうに生きられるといいなぁ。
亀にもアマガエルにも教えられる日々です。
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