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母と過ごした2ヶ月半

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2022年8月。私は27歳、母は59歳。急に足が動かなくなった母は、ガンが脳に転移しており、余命1,2ヶ月と宣告される。私は仕事を休み、自宅で母の介護がスタートしました。母と過ご…
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#ターミナルケア

50 祈り

何者かわからない何かに、私は祈っていた。 1日でも、1時間でも、1分でも、 母とのお別れをとどめてください。 お願いします。 ・・・神様。 家は曹洞宗。でも、普段から信仰深いわけでもなく、寺にも神社にも教会にもお祈りする。とりあえず神々しいものの前では手を合わせてみる。 そんな私だが、母はキリスト教に興味があったようだ。 母はそこまで信仰に熱心というわけではなかったが、 若い頃に聖書を勉強していたようで 「イエス様に祈るんだよ」 「天国や地獄は本当は無くてね、死

49 一週間ぶりに吸った

朝、目覚めると母は隣で呼吸を続けていた。母は今日も生きてる。 起床後に母の呼吸を確認、一安心する毎日だ。 今日は土曜日の朝、曜日感覚なんてもうどこかにいってしまった。 いつもと同じ朝なのに、土曜日というだけでうきうきする。長年土日休みをやってきたからだろうな。 「お母さん!晴れてるよー!お出かけしようよー!」 もちろん返事はない。 悲しいけど、無反応にも慣れてしまった。 昨日届いたムラサキシキブ。 母にとって思い出深い花なんだ。 花の写真を撮るついでに 秋晴れに

44 私にくれた最期の言葉

何が正しい処置なのかわからない。 ただ、怖かった。 苦しむ母を目の前にして何をすればいいかも分からず、 看護師さんの指示通りにやっても、苦しみ続ける。 今の状況が、死の直前なのか、死へ向かう過程なのか。わからない。お医者さんでもわからないのかもしれないけど。 とにかく苦しむ母をなんとかしたくて、 何が緩和ケアなんだと悔しくて、 友達が話してくれたことを看護師さんではなく、(看護師さんは酸素マスク導入について決められないらしい)お医者さんに電話相談した。 このときは既に

43 緩和ケアって、死ぬ前って、苦しくないんじゃないの?

たん吸引をして3時間ほど経った、23時。 母はまた苦しみだし、そして叫んだ。 『このままじゃ死んじゃう!!最期にお父さんに電話するんだ!!』 たんが気道を塞いでしまうのか、とても苦しそうだった。 看護師さん曰く、呼吸の苦しみを取り除くためにはたん吸引しかないらしいので、家族で吸引をやってみようか?と検討するも怖すぎて断念。 もう一度看護師さんに訪問いただき、たんを吸引してもらった。 しかし、看護師さんがたんを吸引したところで母が楽になったようには見えなかった。

25 THE ALFEE

母は、THE ALFEEの所謂ガチファンだった。 しっかりファンクラブ会員。 デビュー当時からのファンで 私も子供ころから車などで聴いているせいで 大体の曲は聞き覚えがある。 そして家族みんな一度は一緒にライブに行っている。 救急車で運ばれた日。 アルフィーグッズの発売日だった。 運ばれてもなお、 「14時から発売だからこれとこれよろしく!!!」 「アルフィーグッズ頼めた!?」 やれやれ、高見沢命である。 朦朧しているときだって、 「アルフィーラジオ録音した!?

18 終末期の予習

看護師さんも先生も、訪問看護師さんも、訪問診療の先生も、死に向かうプロセスについて、案外教えてくれないものだった。 なんとなく避けてるような、気を遣っているのか分からないが、みんな揃ってハッキリ伝えない雰囲気を感じた。 私と姉は、母の予後を告げられてから【終末期】についてよく調べた。母が家に来る前から、動画やネットの記事を見て実際に目の当たりにするであろう事柄を予習した。 月単位、週単位、日単位、時間単位… せん妄…中直り現象… 尿の状態、呼吸の変化… Dr.Tosh

6 救急車

今朝は通院。 朝起きて、通院の身支度をしながら 母の異変に気づいた。 片目の視線がズレている 呂律が回らない 加えて下半身不随となった身体で普通の乗用車への乗車も難しい。その中で30分も車に揺られて通院はもはや不可能だった。 「救急車を呼ぶ!」 父の判断は正しかった。 救急車で通院となった母。 近所の目を気にする母は、 「ピーポーは鳴らさないで!」 と強く言っていた。 しかしピーポーサイレンは必ず鳴らさないといけないらしい。

5 久しぶりの帰省

「お母さん、このままじゃ危ないと思う。」 母親をそばで見ていた姉からの連絡だった。ストレートに伝えてくれる姉に私は救われた。  母に連絡をしても、 「大丈夫、お仕事頑張って!」 「こっちのことは気にしないで!」 心配をかけないようになのか、詳細を伝えられなかった。 【私も家族なのに】【頼って欲しいのに】 抗がん剤治療中だった母は1ヶ月の間で急に歩けなくなってしまったという。 杖をついてなんとか歩く。 その一週間後には 歩行器。 次の週には 立ち上がることもできなくな

1 母からの連絡

ちゃぴおー! 名前だけを呼ぶ、一言のLINE。 どうしたの?と返すと 何してるのか、気になっただけ。 それだけだった。 遠くに住む両親からの連絡はいつもそんな感じだった。何をしてるのかご飯を食べてるのか、時折連絡が来て、スタンプで終わる会話。 しかし、暫くして父から連絡が来た。 母はもう一人で歩けていない。

27歳 自宅で乳がんの母を看取る 

今起こっている全てを、 受けいれる第一歩として。 自身に捧げる。 ーーーーー 59歳の母は17年前乳がんを患いその後再発、転移を繰り返し最後は脊髄、脳にも転移。2022年8月に予後は1、2ヶ月と宣告を受けました。 入院し治療を受けた後、自宅での療養へ切り替え。 訪問看護、訪問診療を活用しながらのケアとなった。 この大事なかけがえのない時間を、 少しずつ言葉にしていこうと思う。