終わらないあとがき

真っ白なキャンパスを前にして、好きな色や筆で装飾していくわけですが、
最後にはそれが真っ白になることももちろんあり得るわけです
今日はそんなお話をしてみようかな



第六感とか直感、それからセンスみたいなものはどうも具現化できようのないもので、知りうる限り最も個々の潜在的な能力に左右されるものです

要するに、そういった類のものに、
あえてこの言葉を使いますが
“長けている”人と“そうでない”人がいるような気がします

同時に、緻密な計画性、論理性や正当性を追求する能力もまた、一つの能力でその能力値は人によります。

ということは、これらの能力には
これもまた敢えて言うならば
“優れている”人と“そうでない”人が存在します

ただ、こちらは割と目に見えます、その過程の一つひとつ、根底にある訳が明確だからです

幼稚園以来の幼馴染が、夢を追って絵を描いていました
思い返せば元々アーティスティックなところがあったような気がするのですが、
なんせ小学校を卒業してから一度も会ってなかった訳で、はっきりとしたことは思い出せずじまい

カメラのフィルムを巻き戻しながら、数ヶ月前
彼が開いた個展に訪れました
SNSで見ていたよりずっと、彼の作品は強く生きていて、あまりにも寂しげで、死を渇望している姿が暴力的に愛でした

そういう矛盾みたいなものは、言語化せよというのが愚問なものです
だから着いてきてくれた友人と私は、数時間そこで絵の考察を繰り返したわけです


会話を実現させるにあたって、得意分野が相手と違う場合に取る努力の方法が、相手の次元に合わせるということになるのは相手を馬鹿にしすぎている。

論理的な説明を展開させるのが不得手でも、相手から噛み砕いた説明をされるのは癪に触るだろう。頭が悪い訳じゃない、むずかしい話ができないわけじゃない!あなたの手段を使って!

感性を爆発させているとき、相手がなんとかこちらの感性に合わせようと耳を澄ませているのを見ると腹が立つだろう。あなたの耳で聞け!


 屋上で、少し寒い風が吹く中、画家としての彼が言ったのは「二面性」でした

絵を見て私と友人は、悲しい絵だな、と嬉しい絵だよ、平行線のままもつれこんだ議論の答えをそこに求めていました

「どちらでもいい」と煙草を吸いながら言った彼の顔は、小学生のあの頃の面影を残していて、

「アートってよくわからんよなあ」と言った友人は、意外と頬が緩んでいた

そういう狭間で揺れ動くのは、我々の若さの特権なのでしょうか

昔、親とシーソーをすると、体重の負荷を調整してくれるおかげでちょうど楽しくバウンドするその揺れできゃっきゃと笑っていたのをふと思い出しました

心地のいい揺れのためには、どちらかに傾きすぎるとよくないわけです

あまりにどちらかが重たくなると、バウンドの時に打つお尻が痛かったりするし。

ワークライフバランス?

私の友達には割と、休日に予定が入ってないと嫌だ、というタイプの人が多いです

私は全くもってインドアで、「何もしないをする」のが好きです

「今日は何もしないぞ」と決め込んで、そのときの心の赴くままに出かけることもあれば、一歩も部屋から出ないなんてこともある

ごろんと横になって、まるっと世界を飲み込むように息を吸って

全てを吹き飛ばすように、まるでお誕生日ケーキのろうそくを消すように、息を吐き出します

その繰り返しの先に、

逆光で見えなくなっていた初めての笑顔だとか
蜃気楼のように掴めずにいたもやもやだとか
デジタルになってしまっていたキャッチボールだとか

そういうことに私は友だちをいつも誘って、一緒に「なにもしない」わけです

「  」

真っ白なキャンパスに、
毎日ひとつずつ筆を加えていって、大切な色をひとつずつ選んで、
それがいつかいっぱいになったとき、そのとき初めてあなたが追い求めていた目的が形になっているんではないでしょうか

目的が手段になってたり、手段が目的になってたり、そういう矛盾が、論理と感性が、

私もあの人に教えてもらったもので、
私があなたに教えられるもので、だからこうしてまとまらない文章にして残している訳です


油絵ってのは、失敗しても何度でもやり直せるんだって、白の絵の具がある限り



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