胸の大きさは母性の象徴
筆者、最近怪しいYoutuberの動画にハマっている。講演家という謎の仕事を自ら作り、自己啓発セミナーの模様を惜しげもなく繰り広げられる私見のオンパレードを無料で公開している。その人の動画によると、セミナーに参加するには30万円かかるらしい。とても良い商売だと思う。大きな声で極論を話し、1人頭30万円のお金を得る。うらやましいなぁと思いながら満員の東京メトロに揺られて日々出社するのであった。
動画内に映る講演家の言葉は力強い。すべての言葉を言い切るので、歯切れがよい。「こうでなきゃダメだ!」「そんなものはダメだ!」。日常、あまり聞くことのない強い言葉についつい面を食らってしまう。動画内では聴衆の姿は映されない。そのため、講演家の話している内容から質問を推測して話を聞く必要がある。「バナナはおやつなのですか?」「なぜ、20歳を超えた女性の下着はどんどん布の面積が小さくなるのですか?」「巨乳は知性が足りないという意見もありますが、母性が上回るので問題ないと思います」などといった具体的かつ鋭い質問は出ない。おおむね、自信なさげに「仕事がうまくいくためには?」「幸せになっちゃいけないと感じるのですが…」などといった漠然とした質問のみだ。ちなみに巨乳は母性が上回るので問題ないと思う。
こうした商売が成り立つ背景には「自分の生き方に自信がない人」が世の中に多いことがあるのだと思う。自己承認欲求が満たされず、「俺って生きる意味あるのかな」などと考える人たちのなんと多いことか。筆者だってそんな一人であった。自分の生きる意味に悩み、挫け、必死にもがいた。返済の催促の手紙が届いては破り捨て、自動車税の支払いの督促(給料差し押さえるぞといったもの)を無視し、NHKから逃げ回っていた生活を送っていた時などは、「なんのために生きているのだろう」と悩みながら、キャバクラに行っていたものだった。中の下のキャバクラで働くラウンジレディたちに問いかけても返事はなく、ただひたすら1杯1500円もするウーロン茶をぐびぐび飲みつづけるのであった。
たどり着いた結論から言うと、「自分が存在している意味」なんてものはない。見つからない。筆者が今の職場から忽然と姿を消しても、2、3日はあたふたするが、筆者のクライアントにボスや中ボスが謝って、ほかの人が筆者の成果物を仕上げて終わりである。とても仲良かった高校の同級生の結婚式にも呼ばれないし、筆者が死んだとしてもその便りを受け取る人はごくわずかであろう。筆者がこの世に存在している意味なんてものは初めからない。父と母が愛し合った結果、この世に生を受けて、一生懸命育ててもらって、今があるのである。それだけのことで、それ以上の意味なんてない。だから自分を探しにインドに行っても無駄である。そもそも、インド人だって「毎日カレーばっかりで飽きるなぁ」と悩んでいるはずだし、インドに行って仮に価値観が変わっても、帰国すれば結局、タピオカジュースの店に並んでいる。インスタグラムで自己顕示欲を満たしている。休み明けに仕事になれば、下げたくない頭を下げている。
筆者は昼間から酒を飲むのが好きだということは先日のエントリーでも語ったところである。肌着で近くの公園まで出歩いて、ビールを飲みながら「チクショウ!」などと突拍子もなく叫んでみる。周りのお母さん方から白い目を向けられるが気にしてはいけない。コンビニで買った味付け卵に缶のウーロンハイを合わせて酒を飲んでみる。「んん!」とまた大きい声をあげてみる。怖がらせないように周囲に子供がいないことを確認しなければならない。だいたい無視される。そうしていると、世の中の人はあんまり自分に興味がないことを知れる。仕事柄、いろんな人にちやほやされる機会もあるが、それは名刺の力であることを知る。公園で、肌着で酒を飲む不審者には誰も興味を持たないのだ。
先日、筆者は妻と泣きバナナ(愛娘。ごはんをたべたくないと、妻からスプーンを取り上げて泣きながら振り回す)を連れて、公園に行ってきた。日差しがつよかったので、スポーツするならヒマラヤでおなじみのヒマラヤでテントとレジャーシートを購入。それを公園の芝生に建てた。100円均一でバケツを購入し、コンビニで板の氷を買って、水を張ってビールを冷やした。携帯スピーカーでレゲエを流して、妻と泣きバナナの前で酒を飲みながら音楽を聴いていた。
泣きバナナはレジャーシートの上を這いずり回りながら、草を見つけては食べていた。妻はそれを止めながら、お気に入りの金持ちYoutuberの晩御飯自慢動画を見ていた。筆者は肌着になりながら酒を飲み、歌を歌い、泣きバナナが草を食べている姿を見守った。泣きバナナはクローバーを手に「うおー!」と雄たけびを上げる。お気に入りのようだった。
すると、どうだろう。やっていることは変わらないのに、いつのまにか1人から3人になっていることに気づいた。筆者が試しに「んん!」と奇声を上げると、妻はムンズと怪訝な顔をこちらに向け、泣きバナナは草を片手ににやりと笑った。誰も筆者のことを白い目で見ることはなかった。ただそこには伸びている真っ白な乳歯が向けられているだけだった。
だから、生きている意味なんてない。探すだけ無駄である。つい先日まで不審者の愚行だったのが、家族の休日の姿になることだってある。歌手と自分を偽るフリーターも、フリーランスで働いているとうそぶく無職も、学生ですと言い張る童貞も、生きる意味なんてない。それぞれ、やりたいことをやっていればいい。結果的に無残な中高年、老後を迎えることになるかもしれない。でも、その生きざまが面白いと言ってくれる人に出会うかもしれない。誰かに生きる意味を見つけてもらうまで、その愚行を続けているほうが、きっと人生は楽しい。
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