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1.20 thu 絶望と永遠ってどこ

 「寂しい」の理由を他者に求めるのはあなたが絶望しているからだ。キルケゴールの思想を借りて、そう語るネット記事を読んだ。ははー、絶望かあ、スケールでけーと思いながら、身近な人のことを思い出す。そうしてみると絶望や孤独はスケールの大きな話ではなく、生々しい色で見えてくる気がした。日常的に孤独を口にする友人のそれを想像して、していいものか良くないものか分からなくなったり。助けてと言われたら私に何ができるんだろうか。助からなくても生きていけるわけで、助けとはどこなのか。私は絶望していない気がするけどどうなのか。一人と一人で向き合いきろうとした時に、そこはかとない深淵を感じる。向かいきろうというマインド、それがどこに向かうことなのか分からないからだろうか。

 友人の展示に足を運んだ。すっかりSNS不精の私にフライヤーを送ってくれたり、LINEで知らせてくれたりしたので喜び勇んで遊びに行けたのだ。ありがてー。情報を簡単に得られる時代というけど、もう全然それらを使いこなせていない。友達のSNSでの告知とか見られたらラッキーな方じゃないですか。私が不精なだけだろうか。とにかく、直で連絡をくれる人は本当に偉いしありがたい。それに尽きる。
 見知った顔に会うたび、ああ生きていたんですねと思った。常に誰かが考え制作していることに、素直に心打たれて泣きかけた。久しぶりに会った先輩に、疲れてるようだねと言われて、そうなのか?と考え込んでしまった。「疲れた時は疲れたって言った方がいい。鍋…鍋が食べたいな…とか、誰かに軽率に言った方がいいんだよ」この町にいるたくさんの友人、それぞれのコミュニティが、どうしても同じ世界にいると思えない。そこが繋がると混乱しなくて済むんだけどなあ、とか、結構前から考えている。

抱き合って眠れば海は遠くなる 見えないものはないのと同じ

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