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2022.9.7 wed

 お久しぶりです。
 日記を書いていない間が3ヶ月ほど。その間に生活スタイルがずいぶん変わった。

 朝は6時に目が覚め、散歩などする。支度をしても出勤まで時間が余るから、コーヒーを淹れてしまう。しびしびと啜り、本を読んだり、丁寧にお化粧をしたり、とにかく余裕のありようが半端ではない。一年前は家を出る15分前に起きて、バタバタと出掛けていたものだ。通勤路を自脚(造語ね)で走りながら「つらい!つらいよお!」と思っていた、あの悲しみはもうない。とても嬉しい。
 散々眠れなかった夜も、今は22時台に寝ていることが多い。朝も夜も、生活時間が変わった原因はわからない。家に仕事を持ち帰らなくなったからか。夜な夜なビールを飲んでいるからかもしれない。何にしても、オフの時間が作れているのは嬉しいことである。

 増えた時間で何かを生み出せているかというと、そうでもない。家計簿をつけるとか、洗い物をするとか、溜めがちだったことが進むようになったくらいだ。「時間が増えたおかげでこれができるようになりました」ということは思いつかない。朝ジムに行くみたいに、習慣らしい習慣ができたら更にバンザイだなあ、とか思った。トランペットの練習ができる施設があるから、朝練を半分本気でもくろんでいる。

  *  *  *

 またたきをする間に6、7、8月が去った。持病である躁鬱の具合が悪くなって、とにかく療養することに専念していた期間ともいえる。通院のおかげで程よく元気になり、浮き沈みに悩まされることも減った。ただこの数か月、何も自ら生み出すことがなかった。
 日々のどこかで、これは果たして生きているといえるんだろうか、と考えることがある。過剰に精神を揺さぶられていた時期は苦しかったが、心が凪ぎすぎるのも不安なものだ。おかげで日記に書く心がない。このまま無音の風にさらされて、めしを食い、風呂に入って眠り続けるんだろうか。よろこびを噛みしめる出来事はあるだろうか。という心が今、あります。

 自分のよろこびはどこにあるのか。焚火を囲んで話した。ひとまわり年上の友人が「人生どこに落ち着こうとするかやんね」と言っていた。「俺みたいに親が死ぬまで分からん奴もおるわけや」らしい。分からんよなあ。分からんから、恐れずに何かやったりやらなかったりしていたい。


火の色をたとえるすべがない夜に「ぱちぱち」ふたり輪唱し合う

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