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2.7 sun 何度も聴き流すこと

「ひょっとして音楽を歌詞で聴いてる?」
 友達に言われたことがある。半分そう〜とかなんとか答えた。家族の影響か、歌は言葉の意味を聴いてなんぼみたいな考え方が小さい頃からあった。
 教訓を持つものが歌、メロディアスでいるものが歌、という父は、絵画も写実主義のものを好んだ。ポルノグラフィティの『ネオメロドラマティック』を「なんか心地よくて好き」と母が言うのに、父は猛然として反発したし、ラップを用いた音楽も父は決して認めなかった。私はネオメロドラマティックが好きだったけど、父に反論もできなかった。

 具体的なストーリー記述をしない歌を、父に「歌詞に意味がない」と言われて泣いたことがある。小学生の頃だ。なんだか悔しくてたまらなかった。歌詞を聴いていないんじゃなくて、意味がないと父が感じるその歌詞も好きなんだけどな、と思った。言葉のリフレインや音にハマる心地良さは幼くてもなんとなく分かった。
 邦ロックと呼ばれるものに傾倒したのは、その少し後である。Base Ball Bear、フジファブリック、サカナクション、視覚的だ、とか曖昧模糊としている、とか父に言われて怒り狂った記憶がある。ハマったバンドはどちらかというと詩性が強くて、そこに惹かれていたからなおさら怒った。CDを借りてはiTunesに歌詞を自力で打ち込むのが私の青春だった。

 曲そのものより歌詞が好きだったかもしれない。その感覚が、大学に入ってからかなり変わった気がする。 

 最近、歌を聴きながら歌詞を見ることがほとんどなくなった。何と発音しているか全く分からないときはたまに見るけど、わざわざ見てその全体像を俯瞰しようとは思わない。言葉が流れていくのを止めたくない。そういう強い感覚がある。
 そうやって聴いていると、前後のつながりを受け止めきれないまま音楽に流されていくことになるわけで。その受け止められなさを含めて、そのまま聴いていたいと思うようになった。
 文字ではなく、歌として口ずさんで反芻すること。それをとても大事にするようになってから、自分は音楽が好きになったなあと感じる。

 yukaDの『日帰りでいい』。アルバムに収録されているバージョンは冒頭と最後にラップが入っていて、それがとても心地いい言葉の流れをしているんです。アルバム内の歌すべてを総ざらいしていくような、とりとめもない言葉。流れていく、という形容がぴったりくる。Apple Musicで聴けますから、利用している方はぜひ。



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