斜め右の彼

斜め右の彼

17時30分。終業時刻。斜め右に飾られた時計に目をやろうとする度、彼の表情が視界に入る。一週間程まともな食事を摂っていないかと心配になるような痩けた頬、朝出勤前に2秒で整えたかのようなボサボサにつけられたジェルワックス、無駄に高く整った鼻、その全てが私の不快感を増幅させる。

「今日はトレーニングの日かな?」

まただ。その声を聞くと、昼に急いで胃袋に詰め込んだ駅前のかけ蕎麦が逆流しそうになる。

定時に仕事が終わる日は滅多にない。恐らく上司である彼がこの会社に居座り続ける限り確実にないだろう。根っからの仕事好きで、土日の休日もスーツで過ごしていると噂されている程だ。私からすれば彼のプライベートなど微塵の関心もないが、その様子を想像するとなんだか笑えてくる。ただ、仕事ができる人間であることも確かで、これまで大手広告代理店とカーディーラー2社で営業を経験。全ての会社で全社員中トップの売上成績を記録している。尊敬している面も多いが、問題は終業時刻ジャストに飛んでくるその一言だった。これは私にとって弊害でしかないのだ。

「定時は17時30分ですよね?後は家で原稿仕上げるので今日はお先です!」

なんて言えるはずもなく

「いえ。まだクライアントへの初校ゲラが未了なので今日中に出します。」

24時間しかない1日と、面白い記事がイメージできない自分の情けなさが押し寄せる。誰への責任転嫁もできない。全ては自分の裁量次第。定時にノリノリで帰宅し趣味のランニングや友人との食事を楽しむか、22時にビルの管理人の帰宅を能面のような顔で見送るのかも全て。

仕事に生かされている「斜め右の彼」だが、一度たりとも他社員より早く帰宅する姿を見たことがない。少なくとも私の記憶にはない。ふと、妻と子供を持つ彼の帰宅風景を想像してみる。仕事中はアウトレイジの幹部を彷彿とさせる表情の彼も、「ただいま〜!遅くなってごめんね〜!」と飛び切りのスマイルを見せるのだろうか。「今晩のご飯はなに〜?」と甘えた声でお腹を鳴らすのだろうか。新婚ほやほやの32歳だ。家庭の中くらい幸せな顔をしてほしい所だと祈るばかりだが、そんな可能性はどうしても現実的とは言えなかった。真面目を絵に描いたような性格とその実力から、私や他社員も従わざるを得ない。他の誰よりも彼が最も苦しんで戦っているのだから。

幸い、私は現在の仕事が好きで働いている。当然不満も多くある上に、明日仕上げれば間に合う原稿の場合も残される事が日々恒例の為にストレスを感じることもある。だが、ストイックで寡黙、部下へのサポートを徹底的に考えてくれる「斜め右の彼」がいるからこそ些かなりとも成長できているのだと信じている。

夏の日の涙

 茹だるような暑さで、記録的猛暑日と早朝の5CHでアナウンサーが伝えている。激動の7日間を乗り越えた私は、ノンストレスで起床できる土曜を迎えていた。絶賛爆睡中、とある一本の電話で飛び起きることとなる。

「おはよう鈴木くん。13時から近くの海でサーフィンするんだけど一緒にどうだい?」

夢から現実に戻るまでに8秒。内容を理解するまでに10秒。所要時間合計18秒といったところだろうか。

起床から18秒で上司とのサーフィンデートが決定したわけだが、拒否権などあるわけもない。信じられない量の水を飲み、自らの精神の沈静化に努めることしかできないのだった。

意外なことに趣味はサーフィンで(何が意外なのかわからないが)、好きすぎるあまり鎌倉・七里ヶ浜海岸前に一軒家を建てたそうだ。その財力には驚きだが、「斜め右の彼」の仕事ぶりなら頷かざるを得ない。

片瀬江ノ島駅に到着すると、赤いミニクーパーが待ち構えていた。レイバンのサングラスに白いハーフ袖のシャツ、右腕には仕事用とは仕様の違う厳つめの時計が光を放っていた。

「お疲れ様!ごめんね急に来てもらっちゃって!」

あなたのおかげでお疲れですよ。。と心の底から思ったが、その爽やかさと仕事中には絶対に見せない笑顔に許してしまうのだった。

サザンの「ピースとハイライト」をBGMに湘南海岸沿いを走らせ、自宅付近という七里ヶ浜周辺へ到着。生まれてこの方サーフィンなどしたことがなく、指導鞭撻を賜ることが確定事項だった。それでも、ボードの使い方、波の乗り方、ちょっと変わった楽しみ方に到るまで丁寧に彼は教えてくれた。それは彼の人柄から滲み出る一種の慈愛心であり、決して憎めるものではないのだ。

そうこうしていたら日も沈み始めるかという時間帯になった。夕食をご馳走するからと、再び赤いミニに乗って茅ヶ崎方面へ向かう。到着したのは、''知る人ぞ知る''というような洒落たスペイン料理の店だった。店外には、みかんの木やら、赤やピンクの鮮やかなゼラニウムの花が彩られており、店内のテーブル席にも真紅のアマポーラの花がキャンドルと共に美しさと少しの潔さを放っていた。

「妻と初めてデートしたのもこの店だったな」

彼が初めてプライベートな話題を口にしたので、私は心の中で小さく声を上げてしまった。いや、本当に口にしていたのかもしれない。

特に面白い返しもできなかったが、彼には特に問題ではないようだ。続けた。

「みんなに自由を与えられなくてごめん。厳しい私でごめん。みんなが頑張っているのは知ってるから。わかってるから。でもごめん。」

そう瞼にうっすら涙を浮かべながら話した。私から言うことは何もなかった。言うべきでもなかった。ただ不思議なことに冷静に、そして一言一言を鮮明に脳に焼き付けるように聞くことができた。今ではそれが正しいことだろうと断言できる。

彼はまだ若い。そして弱い。烏滸がましいことこの上ないが、どこかで支えてあげる部分を持っていたい。心底そう思っている。「斜め右の彼」に少し愛着を覚えた瞬間だった。

(終)

※全部フィクションです。本当にフィクションです!信じて!




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