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ソクラテスに無知の知はあったか

最近、とある昔の恩師とオンライン会議をしました。すごい時代ですよね。それに僕、ビデオ通話けっこう嫌いじゃないです。

で、会話の中でプラトンの『弁明』が話題に上がったんですよ。それで久々に手に取りました。岩波文庫『ソクラテスの弁明/クリトン』。

ソクラテスは、当時最高の賢者と言われた人です。そのソクラテスは、彼を妬む人たちの陰謀によって半ば理不尽な死刑を宣告されてしまいます。でもソクラテスは、出廷することからも、自ら毒杯を飲むことからも、逃げませんでした。

そこで繰り広げられるソクラテスの弁明というのが、まことに有名なんですね。そもそも西洋哲学とは、プラトンの注釈であると言われるくらいです。

デルフォイの神託によって最高の賢人とされたソクラテス。それを確かめるため、彼は、方々の智者を訪ね歩きます。政治家、詩人、手工業者。みな、賢い男達でした。ソクラテスにも引けを取りません。

しかし、その智慧は所詮、人間のレベルであって、神の前にはほとんど意味をなさない、何の価値もない。それを自覚しているのはソクラテスだけでありました。だからソクラテスは、神託通り、自分こそが最高の賢人であることを確信します。

これが「無知の知」です。

ソクラテスは智者をたずね歩き、彼らの無知を指摘し続けた。それがきっと、敵を作ることになってしまったのです。

でも僕は、ソクラテスもやはり「無知の知」には辿り着いていないような気がします。なぜなら、ソクラテスは、彼が訪ね歩いた智者達が自らの無知を自覚しているかどうかを検証してはいないからです。

ソクラテスは、ただ何となく、「こいつは自分が無知であることを知らない、その点でわたしは彼より優れている!」と決めつける。

相手の無知を指摘するのは、全知全能の神にしかできないことであるような気がします。なぜならこれは、相手の智慧を「知っている」と表明する行為だからです。何かを知った気になったとき、それこそがソクラテスの指摘する「無知に無自覚」な状態なのではないでしょうか。

「さかしら」というのは「賢しら」で、賢ぶった態度を言います。ソクラテスは、大変なさかしらだなぁ。ひさびさに『弁明』を読んだ僕は、こう感じたのでした。

でも、これは全くのブーメランになってまして。ソクラテスほどの賢者をつかまえて「こいつさかしら!」と言っている僕こそ、一番こざかしい愚者なのでしょうね。嫌になっちゃう。

Jacques-Louis David 《La mort de Socrate》 1787 MET

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