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宗教 神話 科学 ②

「科学的」なるものと「宗教的」なるものの違いは、どこにあるかな?単に数式を用いいるかどうかとか、果物を供えるかどうかで判断するのはわかりにくいね。このふたつをその態度で分類したとき、およそ次のように表されるんじゃないかな。

○宗教を信じる人間)問いの放棄
○科学を探求する人間)問いへの固執

17世紀以降、科学の勢いは増すばかりなんだ。現代のこの世界は、まさに、そのまっただ中にある。宇宙や災害や人体の謎を、数学的に解き明かそうとする科学がぼくたちの思想を支配し、神話や宗教は顧みられなくなった。

それどころか、そのようなものを信じている人間は愚かものだと思われ、蔑まれてしまう。なにせ、神話や宗教は、半導体の導電性の効率化について、何も教えてくれないからね。

でも、それらは単に愚かな幻想などじゃあない。先ほど君たちに語った神話では、その存在が、多くの若者が闇雲に海へ飛び出し、命を落とすことを抑制していた。海の向こうの世界の存在に気づいた村民たちは、より実り豊かな土地への憧れを抱いたけど、同時に、敵意を持っているかもしれない対岸の住人への恐怖を覚えてしまった。

科学は目の前にある不可解に対し、ひたすら問いを立て理解しようとする。

海の向こうに何があるのか、その目で確かめるまで納得できない態度を言うと思うんだ。科学の本質は、問い自体にあるんじゃないかな。ただ残念ながら全ての科学には限界がある。海の向こうの土地を見つけた青年は、さらにその向こうを目指さずにはいられなくなる。その探求の行く先は永遠に伸長し続けて、終わりがないんだ。

科学がいくら進んでも真理に至ることがないということは、科学をよく知っている人は、よくわかっている。ただ目の前にある問いを片付けずにはいられないんだ。そういう好奇心は、あるいは人間のもっとも基本的な性質かもしれないね。

一方で、神話や宗教は不可解な事象に対し、疑問を持つことをやめる。人はなぜ生まれてきたのか?死んだらこの魂はどうなるのか?宇宙の向こうには何があるのか?そういう疑問に答える物語を作って、自分を、自分以外の悩める人を、納得させる。

なぜこのようなことをするのだろう?それは神話や宗教を形づくる人々には、すでに、科学の限界が見えているからなのだろうね。どこまで高度な計算術を用いて世界を暴いていったとしても、人間が知りうることなど所詮はごく狭い範囲に限られている。全てを暴くことはできない。

とくに科学には、人の生死をコントロールしたり、死後の安楽を与えるような仕事はできないんだ。何億年経っても、おそらくは。神話や宗教はそれを知ってるから、あえて問い続けるのをやめる。

Nicolas Poussin 《L'Adoration du Veau d'or》1633-34  National Gallery, London

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