頑張ることの本当。

私は、過去の記憶を曖昧に持っていて、でも、今の自分を知ろうと思ったとき過去は切り離せません。

だから、頑張って思い出そうとして、頭の中に引っ張り戻そうとしているのですが・・・

そこで、気付いたことがあります。

それは、親や周りの人から与えられなかったのではなく、過剰に与えられすぎたものがあるということです。

結果として、自分という人間があるにもかかわらず、あまり、この人間の価値を捉えられていない。
こんな悩みがあります。

与えられたのは、物質的なものだけではありません。
自分という人間を確立すること以前に、どうぞどうぞと与えられたものがあるということです。

私が感覚的に嫌っている言葉があります。
それは、「期待」という言葉です。

この「期待」を嫌っている理由もここにあって、親や先生から感じ取っていた「期待」が少なからずあったからだと思っています。

私は過去、音楽をやってきました。

音楽は、「期待」という言葉を辿るのにわかりやすい例の1つだと思っています。

人前に出て演奏する。

それだけで、もうすでに、抱えきれないほどの期待を背負っているイメージがあります。

当時はそんなこと思いもしませんでしたが、今思い返すと、ストレスやプレッシャーという言葉に、すんなりと置き換えられてしまいます。


この4連休、家で一人でいることがすごく苦しいと感じていました。
特に始めの3日間、息苦しさが勝手に起きるという体の異変を感じていました。

でも、今は、明日からまた仕事が始まって人に会う毎日が始まると考えたら、明日の自分に備えようという気持ちが勝手に生まれ始めるのです。

しかし、これは、結構まともじゃない事実だと、俯瞰してみた自分に言い聞かせたいです。

言ってしまえば、人がいなければ、自分がいないという事実です。


最初のテーマに戻りますが、これも過去の影響があると思っています。

親に与えられすぎたものやよって、自分の持っている袋の量がいっぱいいっぱいになって、パンク寸前なのに、色んなことをこなそうとしていた。

その結果、本来通る道である道路からはみ出して、高すぎる結果ばかり求めるようになった。

でも、それは、自分でできることじゃなかった。


こういうテーマに最終的に戻った時、自分がすごく安心しているのを実感します。

自分の気持ち良さとか、心地よさとかを、他に求めることの間違い。
それを実感するのです。

家にいる時間が8時間だったとしたら、そのうちの30分くらいしか、今は、この気持ち良さは感じられません。

でも徐々にでも、少しずつで良いから、体を流れる血が、自分の背骨を通っている感覚を取り戻していきたいと思っています。




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