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中年が始まるが、世界は終わってくれない
phaさんの新著「パーティーが終わって、中年が始まる」を読んだ。
京大吉田寮出身の元「日本一有名なニート」として、定職に就かず、家族も持たず、シェアハウスを運営しネットで知り合った仲間とゆるく自由に暮らしてきたphaさんが直面した、いわゆる「中年クライシス」について赤裸々に綴られたエッセイである。
基本的にphaさんの本はゆるく書かれ、こちらもゆるーく読むものなのだが、本作のテーマは私自身が今まさに直面している問題でもあるので、姿勢を正して読ませていただいた。
そこで、折角なので私もphaさんに倣って、中年の入り口(本稿執筆時点で41歳)に差し掛かった現在の心境を綴ってみようと思う。
なお、中年に差し掛かり直面する「危機」はそれまでの人生や現在の立場も大いに関係し、人それぞれであるので、まあ参考までに読んでいただけると幸いである。
ところで、くるりの名盤「THE WORLD IS MINE」の一曲目「GUILTY」(※1)にはこんな一節がある。
「欲しいものは諦めてる 持ってるものにも飽きてきた」
これがかなり今の心境に近いので、本稿ではこの曲の歌詞を適宜引用しながら進めていくこととする。
(※1:なお、この曲が発表された時点でのくるり・岸田繁の年齢は26歳なので、本作が中年について書かれた楽曲でないことは明白である。しかしながら、リスナーというのは他人が書いた曲をあたかも今の自分のために書かれた曲だと都合よく拡大解釈して聞いてしまう生き物なのでご容赦いただきたい)
「欲しいものは諦めてる」
その通り、欲しいものは諦めてるし、それどころか最近はもはや欲しがることすら無くなってきた。
人は生まれた瞬間にはあらゆる可能性に満ちている。
そして、生きるということはあらゆる可能性の中から何かを選択することであり、選択するということは、それ以外の可能性を全て捨て去るということである。
中年と呼ばれる歳になるまで、数え切れないほどの選択をし、数え切れないほどの可能性を捨て去り、気づけばあれだけ無限にあったはずの可能性が手のひらに収まるくらいになってしまった。
要するに、人生の底が見えてきたのである。
この先、自分の人生がどの程度の範囲に着地するかは大体分かっている。
多少の誤差はあるかもしれないが、予想到達地点はまあこの辺だろう。
そして、それ以外の欲しいもの(かつて欲しかったはずのもの)は、とっくに諦めてしまったのだ。
「持ってるものにも飽きてきた」
中年が共通して皆持ってるものといえば、「思い出」である。
酒を飲み、当時の音楽を聴きながら、かつての二度と還らない日々における甘かったり苦かったり切なかったりする思い出に浸る。
(酒と音楽は思い出を想起するための最高の触媒である)
そんな「思い出浸り」こそが、中年にとって最高の娯楽であり至福のひとときなのである。
しかし、いくら大切な思い出でも、何度も浸りすぎたら次第に飽きてくる。
かといって、今からタイムマシンで過去に遡り新しい思い出をでっち上げるわけにもいかない。
その結果、噛みすぎて味のしなくなった思い出というガムを仕方なくいつまでも噛み続け、味の向こう側(※2)に到達するしかなくなってしまうのである。
(※2:麒麟・田村裕は極貧時代に口の中でお米を噛み続け、味がしなくなってからも噛み続けることで「味の向こう側」に到達することができたと話している)
「GUILTY」の歌詞はこう続く。
「金持ったら変わるんかな 誰かを守るために変われるかな」
残念ながら、これもまた中年を苦しめる要素の一つである。
前述の通り、何かを新しく手に入れる可能性の乏しい中年は、今持ってるものを守り続けるしかない。
しかし、守るというのはすごくしんどくて辛いことだ。
例えばサッカーなんかでも、手にしたリードを最後まで守りきるというのはとても難しい。
後半のロスタイムまで一瞬たりとも気を抜けないし、ほんのわずかなミスから全てを失ってしまう恐怖と戦い続けなければならない。
ドーハの悲劇は、中年の悲劇なのである。
「いっそ悪いことやって 捕まってしまおうかな」
もちろん、そんなわけにはいかない。
これまでの年月を積み重ねて(他の可能性を捨てる作業を積み重ねて)ようやく手にしたものを全て捨ててしまうことになる。
むしろ、中年は悪いことをすると「若気の至り」ですまされず洒落にならないので、日ごろから自分は無害な中年であることをアピールし続けるのである。
(「プルプル、ボク、わるい中年じゃないよう!」)
では、中年にはもはや救いはないのであろうか?
人生の折り返し地点を過ぎ、残りの人生、中年になってしまったという罪の十字架を背負いながらゴルゴタの丘を登り続けなければいけないのだろうか?
「GUILTY」の歌詞の最後はこうである。
「すぐに忘れるわ こんなこと」
そう、中年になると脳のシナプスが次第に減少し、記憶力が劣化し始める。
今言おうとしたはずの言葉を忘れ、スーパーマーケットに何を買いに来たか忘れ、漫画の新刊を買っても前巻までのあらすじをすっかり忘れている。
(最近、岩明均「ヒストリエ」の最新巻が5年ぶりに発売されるという記事に「前巻までの流れを忘れてしまった人のためのあらすじ」が添えられていたが、私はそれを読んでも全く何も思い出せなかった)
だから多分、中年の入り口で直面したこんな苦しみなんて、あと何年か中年を続ければすっかり忘れてしまうのだろう。
今の状態が当たり前になって、何が苦しかったのかもよく分からなくなって、少しずつ衰えていく身体を引きずりながら、残された時間を「予想到達地点」に向けて進み続けるのだろう。
それはそれで、まあそんなものなのかもしれない。
「どうにかなるかな?」
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