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無意識民主主義について

最近、ネット有名人として有名になっている成田悠輔氏であるが、データアルゴリズムやそれによる政策分析を専門とされている方である。そんな成田氏の専門分野外である民主主義という大きなテーマを扱った「22世紀の民主主義」は、無意識民主主義という奇抜な提案をしている。その内容からは、現在の停滞した民主主義を払拭するため、民主主義に関する様々な選択肢を俎上に載せようとする意志を感じた。自分としても、現実の流れに身を任せるのではなく、積極的に将来を構想し、理想に向けた選択をすべきだと考える。その点への共感から、この書評を書くことにした。

この文章では、本の内容をまとめつつ、無意識民主主義とその他の議論・実践されている新たな民主主義と照らし合わせ、無意識民主主義の明確化、理論的位置づけを試みる。


無意識民主主義について

無意識民主主義とは、現状の民主主義や派生的に検討されている制度との対比として著者が造った言葉である。無意識民主主義は、選挙にて代表者を選び、その選ばれた人々が政治を行う代議制民主主義への問題意識を端に発する。

一つ目の問題として、選挙を行う市民の投票行動の曖昧さがある。市民の選択は、日々の気分で変わりうるものであり、投票という意識的行動を本来の民意と捉えることはできない。直近に見たニュースや政治家個人の印象論で、私たちの選択は変わってしまう。それでは、代議制民主主義が想定しているような合理的決定はできないはずである。

二つ目の問題として、選挙制度が政治家に、短期的利益のための政策決定をするインセンティブを与えていることがある。日本では、衆院選が4年に一度、参院選が3年に一度行われる。そのため、政治家は、数年後の自分の評判を考慮し、短期間に成果が得られる政策を実施しやすくなる。そのため、注目されていない問題や長期的問題は後回しにされてしまうのだ。

三つ目の問題として、代表者が個別の問題に対して政治を行うという形式の不合理性がある。私たちは、いくつものアジェンダがあるにも関わらず、一人の候補者にしか投票できない。そのため、個々のアジェンダで自分に最も合っている候補者を選ぶことができなくなってしまう。また、選ばれた政治家も、全てのアジェンダについて理解し、十分な議論をすることは時間的にも能力的にも不可能だろう。代議制民主主義は、このような致命的な欠点を持つ。しかし、ここ数百年間の間、十分な修正をされていないのが現状だ。数百年の社会状況で生まれた制度を理由もなく現在まで引き継ぐのはなく、発展しつつある技術を用いてアップデートすることができるはずだ。

無意識民主主義では、こうした問題意識のもと、市民の日々の行動をデータとして集め、分析することで、市民の無意識に基づいて政治的決定を行うものである。ネットや監視カメラなどの様々な媒体から得られる無数のデータが扱われるため、それらを分析し、平均を取ることでより正確な民意を導き出せる。選挙は、このデータの一つに格下げされる。

こういったアルゴリズムを使った民主主義では、柔軟な意思決定が可能となる。データ分析を行うアルゴリズムは、民意を導き出すもの、民意に沿った政策を導き出すものの二つに分けられるが、政策決定段階では、民意だけでなく、GDPや幸福度などの様々な指標を取り入れることが可能だ。そのため、長期的な問題を考慮しつつ、複雑な意思決定を行うことができる。また、特定の市民の意見が尊重されるべき問題について、データの重みづけを変えることでアジェンダごとの対応が可能である。なお、アルゴリズムもデータを踏まえて決定される。


「22世紀の民主主義」を読んで

①闘争と逃走について

本著は、第2章闘争・第3章逃走で、現状の民主主義に関する議論・実践に触れている。第2章では、現状の民主主義を改良することで現在の社会秩序を維持しようとする試みを「民主主義との闘争」として紹介している。また、第3章では、富裕層を中心とした独立国家設立などを目指す運動を「民主主義からの逃走」として紹介している。この分類は、現在の社会構想に関する議論を的確に分類・ラベリングしたものである。

未来の民主主義や国家の姿についての議論を見ていると、大きく二つの流れがあることに気づく。一つは、熟議民主主義や分人民主主義などの、現在の代議制民主主義に新たな制度を加えたり、改良することを想定したものだ。

この議論では、民主主義や現在の国家体制の歴史的背景をベースとし、将来像を提示する。例えば、古代ギリシャで取り入れられていた官僚の抽選制や直接民主主義的な議論の場を現代の社会に落とし込んだような制度を提案する。また、分人民主主義という単語は、現代社会で前提とされる社会の最小単位としての個人という認識に対するアンチテーゼとして、分人という言葉を使っている。個人の主張は、一つの論理性や合理性に貫かれたものではなく、様々な要素に分解可能であるという考えを基礎とする。その基礎的な理念から、投票を1票にするのではなく、分割可能な形式にしたり、投票権を委譲可能な権利とするなどの提案がなされる。これらの提案は、それを実現するうえでの、地方自治との関係や憲法に基づく議論なども併記されており、現在からの制約を強く意識している。こういった議論は、現在の代議制民主主義をベースとした私たちの価値観からも、想像しやすいものである。これらの提案に対し、強い否定的感覚を抱く人もそれほどいないだろう。

それに対して、経済・技術の急速な発展に注目した、社会全体の爆発的な展開を提示する議論がある。この議論は、Web3.0が確立され、情報セキュリティを確保しながら場所的制約を無視できるようになったことで、地域を区分する現在の国家制度自体を否定することから始まる。そして、この議論を推進しているのは、さらなる利益や自由を求める富裕層である。実際、富裕層が資金力を使って実験的な試みを進めていたり、企業が市場を奪い合うように、国民を取り合う国家観を提示していたりする。この議論に積極的に参加していない立場からすれば、SFのようなぶっ飛んだ世界が想像される。自分は、貧富の格差が拡大し、経済力と政治力が暴走するディストピアが思い浮かぶ。もちろん、マイノリティの視点も踏まえ、細かい制度設計や法整備を行えば、能率的で過ごしやすい社会が出来上がるかもしれない。しかし、少なくとも現在はそういった議論となっていない。


②アルゴリズムとしての民主主義

本著の中では、民主主義の本質をアルゴリズムとして捉えることで、無意識民主主義を説明する。この枠組みでは、私たちの民主主義は、汲み取られた民意=入力民主主義制度=アルゴリズム政策決定=出力という風に表せる。この枠組みで重要なのは、入力は、本来の民意ではなく、政策決定を行うものによって理解される民意である、という点だ。市民が本当に求めているものを、政策決定者が正確に理解できている確証はない。この点は、私たちが常に気に留めて議論しなければならない。


③制度への信頼・責任の所在・自然への諦観

民主主義制度を実装するためには、必ず市民からの合意を得なければならない。その制度に従う市民による合意がなければ、制度や政府は機能しない。なぜなら、私たちが何かに合意する際、それが科学的に正しいと認められるという理性的判断にのみによって行われるものではないからだ。感覚的にも納得することができなければ、完全な合意とはならない。例えば、卒業式などの儀式は、形式的な手続きを行い、「学校を出た感」を醸し出すためにある。卒業式もなく学校が終われば、なんとなく実感が湧かないだろう。投票のその一つである。実質的に意見を反映させる機会であるだけでなく、私たちは投票所へ行き、名前を書き、箱に入れること自体に、感覚的に意義を見出している。そして、そういった儀式を持たない、無意識民主主義は感覚に関する大きな問題を抱えていると考える。以下で、制度への信頼、責任の所在という二つの観点から説明を行う。

→制度への信頼
無意識民主主義では、公開されたデータアルゴリズムによって政策決定が行われる。そのため、一般市民は自発的な行動を求められず、全てが自動的に決定されるのを待つだけだ。これでは、科学的に合理性が認められるものであったとしても、一般市民からの合意を得られるとは限らない。

合意を得るためには、様々な感覚が満たされなければならないが、信頼はその中でも重要なものだ。私たちが署名や募金をするとき、それが誰にどのように使われるのか、ということを気にする。そして、ネットや募金箱を持っている人の言っていることを鵜呑みにするのではなく、なんとなく信頼できるかどうかを見極める。信頼は、私たちが社会に向けた行動をするかどうかを決める際、大事なポイントとなる。

感覚的に信頼を得るためには、市民が投票等の政治的な意思表示を行い、それが政治に反映されていると、簡単に理解できなければならないはずだ。また、それが政治家という目に見える人間に対して、ある程度影響を与えていることが確認できなければならない。現に、代議制民主主義が機能不全に陥り、新たな民主主義制度が構想されているのは、制度への不信頼が拡大していることが背景にある。日本国内では、代議制民主主義を「信頼している」と回答した国民は、全体の3割程度しかいなかったという世論調査もある。そして、その不信頼は、政治的無力感や絶望感につながっていることは明白だろう。選挙の不正を主張し、アメリカの議会を過激化した市民が襲撃するという事件も起きた。このように、制度が信頼されなければ、実際の良し悪しに関係なく、その制度は機能しないのだ。

→責任の所在
私たちは、何かしらの被害にあった際、その責任の所在を探す。事件であれば故意が、事故であれば過失が、その被告に責任追及する根拠となる。また、企業などの組織では、その組織の成績が振るわない場合、その組織の代表者の責任問題となり、取締役が辞任することがある。逆に、末端職員が大きなミスを犯せば、責任はその職員へ向けられる。たとえ、その成績やミスが、その個人に限らない構造的問題が影響しているとしても、複雑で曖昧な状況は無視して責任の所在を明確にする。

これは一見、不合理な人間の特性にも見えるかもしれないが、数百年以上の間生き残ってきた概念なだけあって、責任の所在を明確にすることには、私たちの社会秩序に欠かすことのできない合理性がある。

例えば責任という概念により、被害者を救済することができる。民法において責任が認められれば、被害に対する原状回復義務又は損害賠償義務を命じられる。刑法では、罰金や懲役刑が科される。これらは、被害者の物的・心的な救済を目的の一つとするものである。さらに、責任の所在を明確にすることは望ましくない状況を起こりづらくし、社会秩序を維持するものでもある。刑法では秩序維持機能社会倫理的機能と呼ばれるものである。責任の所在を明確にし、その個人に罰を科したりすることで、特定の行為を行うべきではない、というメッセージを発信することができる。それにより、結果として法律違反等が発生することを事前に減らすことができる。

以上のように、民主主義は、信頼や責任といった感覚的な概念に支えられているのだ。このように考えると、無意識民主主義は、人間にとって非常に扱いづらい制度であるように思える。もちろん、長期的な情報発信等によって、無意識民主主義が信頼や責任の問題を乗り越え、市民からの合意を得られる可能性は十分にあるだろう。しかし、そのためには、論理的かつ感覚的に、市民からの合意を得られるような説明が必要となる。現在の国家観も、「社会契約論」という架空のストーリーに支えられているものである。そのように、市民がなんとなく頷いてしまうような説明をしなければならない。そこで、以下で無意識民主主義における民意の抽出から意思決定までの過程を「自然」のように捉えることを提案する

→自然への諦観
無意識民主主義において、市民は、データアルゴリズムを自然と同視するべきである。自然とデータアルゴリズムの間には、いくつかの共通点があるのではないか。データアルゴリズムと自然は、どちらも人間が完全に理解するには複雑すぎるものである。アルゴリズムには、生態系のように、複雑な関係性の連続によって成り立つ。その中で私たちは、人間よりも遥か巨大な塊の一部として存在し、様々な恩恵を得る。自然は私たちに、あらゆる食料や天然資源を与え、生息環境を維持してくれている。生態系サービスがなければ、私たちは生きてはいられない。そして、その恩恵をデータアルゴリズムに当てはめれば、具体的な政策決定となる。

しかし、自然とは違い、データアルゴリズムでは、最初の設計や修正において、人の手が加えられる。その意味で、データアルゴリズムは、里山に例えると捉えやすいかもしれない。里山は、環境省によれば、「農林業などに伴うさまざまな人間の働きかけを通じて環境が形成・維持されてき」た生態系のことである。つまり、里山とは、人の手を加えられていない生態系に対して、その生態系の一部になるような形で人間が資源面や文化面の恩恵を得るものである。里山では、人間は生態系の一部に組み込まれるような生活をするのである。無意識民主主義が実装された社会では、市民生活のあらゆる場面に目を張り巡らせて集めたデータをもとに、データアルゴリズムによって政策決定がされる。そして、私たちの生活はその政策決定によって規定される。これは、里山における人間の生活と同視しうるほど、人間ともう一つのシステムが絡み合って生きている状況ではないか。

さらに、無意識民主主義において汲み取ろうとする私たちの無意識も、自然と同視できるものかもしれない。無意識とは、私たちの意識的生活の中では捉えきれない脳の複雑な作用によって形作られるものである。意識と無意識の間には、ある程度の影響関係が見られる。しかし、私たちが計画的に関与することで改変できるほど、私たちの無意識ないし脳は簡単にできてはいない。脳の中のニューロンは、生態系さながら複雑な網状組織を作り上げる。つまるところ、無意識はほとんどが遺伝と環境で形成されると考えて問題ないだろう。

無意識民主主義においては、有権者の人数分ある無意識が汲み取られ、生態系にも似たデータアルゴリズムが政策決定を行う。そこに一般市民の意識や理性といったものが介入できる余地は少なそうだ。もちろん、このアルゴリズムを作り出し、修正を加えたりするのは政府に委託を受けたり、第三者機関として召集されるエンジニアだ。彼らは生身の人間ではあるが、もはや神に近い存在になるだろう。彼らは、もはや私たちには理解できないような巨大なシステムを作り出し、手入れをする。そしてその巨大なシステムは、私たちが持つ論理性を遥かに上回るスピードと精度で結論を出す。そして、技術がより進めば、データアルゴリズムの自律も進む。神は7日間で世界を作ったのち、もはや自然を完全にコントロールする術をなくしたのだろう。自分の複製である人間にも、その複雑性を前に、自然をコントロールすることはできなかった。

自然とデータアルゴリズムには、強烈な共通性がある。このような共通性は、一般市民がデータルゴリズムを自然として捉えるための十分な根拠となる。そして、無意識民主主義が信頼や責任といった感覚的な問題を乗り越えることを可能にする。

なぜ、どのようにデータアルゴリズムを自然として捉えることが、信頼や責任についての問題を乗り越えることにつながるのか。その理由は、私たちは自然に対して何も望まないことにある。椎名林檎の「幸福論」では、自然の定義が簡潔にまとまっている。

時の流れと空の色に 何も望みはしない様に
素顔で泣いて笑う君に エナジィを燃やすだけなのです

椎名林檎「幸福論」

何も望むことのできない存在である以上、データアルゴリズムは信頼の対象にすらならないだろう。信頼とは、私たちと意思疎通が可能な存在との関係で生まれる感覚である。このように、市民からの信頼の問題自体を回避できる。

そして、責任の所在に関する議論も回避することができる。例えば、自然災害が起きた時、被災者であれ、ニュースの視聴者であれ、多くの者はそれに責任の所在がないことを瞬時に理解する。その災害による悲しみや苦しみがあったとしても、その責任者を探すということはしない。実際、責任者が存在しないからである。できるのは、その災害が発生しずらい環境を作ったり、発生した際に被害を抑えるための準備をする程度のことである。データアルゴリズムによる政策決定も同じで、より良い政策決定ができるような若干の方向を修正する程度のことしかできない。私たちは、アルゴリズムの複雑性に身を委ね、波に浮かぶ木の葉のような生き方を求められている。

意思決定を自然に頼り、その偉大な背中に身を委ねようとする思想は無意識民主主義以外にもある。くじ引き民主主義はその一例だ。くじ引き民主主義では、政治家や官僚などを抽選で選ぼうとするものだ。誰をどの程度、抽選で選ぶのかという違いはあるものの、確率によって意思決定を行うことが重視されることが特徴である。不必要な論争やエリートの発生を抑えることがメリットである。くじ引き民主主義では、「偶然」という自然に身を委ねることが明確にとされている。確かに、政官財の癒着や学閥による無駄な派閥争いなどを見ていると、民主主義という建前でエリートが政治を行うことへの疑問も感じる。それを払拭できる抽選制は一理あるのではないか。

現代社会の複雑性は、人間の手に負えるものではない。私たちはそれを認め、人間が手を加えることのできない大きな存在に抗うことなく、自然の前に諦観することが賢い選択である。信頼や責任という固い概念を、諦観という柔らかく液体のような概念に置き換えるのだ。無意識民主主義の世界では、信頼できる理由や責任の所在を見出すことではなく、諦観することが、社会秩序を維持するための適切な姿勢となるのである。


④熟議民主主義との関連

熟議民主主義とは、その社会の構成員による議論や対話をベースとして合意を形成し、社会を運営しようとする民主主義である。熟議(Deliberation)とは、討論などの対立型の話し合いではなく、様々な側面を考慮して話し合う、という対話に近いような意味合いを持っている。そのため、熟議民主主義的な取り組みである討論型世論調査や市民会議では、じっくり話し合うための工夫を凝らす。会議の初めに学者や政策担当者からの情報提供がなされ、議論ではファシリテーターが話し合いの適切な運営を行う。この熟議民主主義は、政治哲学者であるユルゲン・ハーバーマス氏が理念的な基礎を築き、代議制民主主義の機能不全に伴い、近年各国で実践的な取り組みが広まっている。それが、例に挙げた討論型世論調査や市民会議である。主にヨーロッパ諸国でさかんに実施されているものであるが、日本国内でも地方自治体や政府によって開催された、いくつかの事例がある。民主主義の現在とこれからを語るのであれば、一度は触れるテーマであろう。

しかし、「22世紀の民主主義」では、熟議民主主義について触れられていない。無意識民主主義についてストレートに説明するため、あえて触れなかったのかもしれない。だが、これだけ活発に議論・実践がなされている試みに一言も触れなかったことには違和感がある。そこには、著者の人間不信に近い失望感があったのかもしれない。

熟議民主主義は一般市民に対して適切な情報と議論の場を与えれば、話し合いによって柔軟に思考を巡らせ、解決策や妥協点を見つけることができるという前提に立つ。そこには、人間が自分の意見を俯瞰的に見つめ、考え直すことができるという期待が含まれている。それに対しては、政治的主張や経済格差などの分断が深まった社会に生きる私たちが、本当に腹を割って話し合えるのか、という批判は向けられるだろう。代議制民主主義が機能不全に陥っていることは、この社会の構成員である私たち自身にも原因がある。そういう意味で、この批判は十分に理解できる。そして、著者の成田悠輔氏もその批判を持つ一人である。それを示すように、本著の最後は「民主主義の再生に向けた民主主義の沈没、それがデータ民主主義である」と締めくくられている。確かに、無意識民主主義という理念自体、投票などの理性的な政治活動よりも、無意識を集めたデータアルゴリズムのほうが優れた民主主義を構築できるという考えに基づいている。

このことから、著者は市民社会への失望に近い感覚を持っているのかもしれない。そして同時に、データアルゴリズムにとてつもない希望を見出しているのだろう。たしかに、熟議民主主義と無意識民主主義には、市民への期待という点で違いがみられる。しかし、どちらも代議制民主主義に対するオルタナティブとして構想されており、共通点も見いだせるのではないか。

市民への期待という視点で代議制民主主義を見てみると、そこには市民への強い期待があることがわかる。投票や陳情といった政治にかかわる行動は、個々人の理性に基づく合理的思考により適切に行われるという期待だ。この期待は、とても美しい考え方にも思えるが、実は代議制民主主義の機能不全の原因の一つである。私たちは、投票の際に複数の候補の中から、自分の考えに最も合う政党や候補者を選ぶ。その際、各政党や各候補者のマニフェストや信頼に値するかどうかを判断するだけでなく、無数の政策論点についての自分の考えを定めなければいけないのだ。これにはどれだけの時間があっても、十分納得のいく判断はできないだろう。さらに、学業や仕事に追われる生活の中では、そういった判断は一層難しくなる。市民の立場からすれば、無理難題を押し付けられているようなものだ。

熟議民主主義や無意識民主主義は、上記のような批判に基づいて構想されている。つまりは、熟議民主主義も無意識民主主義も、大小の違いはあれ、市民社会への失望をきっかけとしているのだ。熟議民主主義的制度が提供する専門家による情報提供や議論の場は、各市民が自ら情報を集め、理解し、話し合うことに期待していないことを意味する。したがって、無意識民主主義は、市民社会への期待を一切捨てていると言ってよいほどの失望具合いであるが、どちらも市民への多少のパターナルな姿勢で共通する。その具体的な姿勢については差異があろうが、理念として通底するものがある以上、その具体化である制度が何かしらの親和性を持つはずだ。その点については、以下で触れていきたい。


⑤民主主義制度の併用

民主主義制度は、様々な理念を持ったものが併用されることで、より活きるものである。どのような素晴らしい理念を掲げていても、完璧な制度はあり得ない。それぞれの制度が死角をお補い合うことで、民意を取り入れて良い政策決定を行うことができる。制度の多様化については、政治学者の吉田徹氏も、著書「くじ引き民主主義」において「民主主義のOSが選挙による代議制民主主義となっている現代においては、その弱点を補完できる民主主義が求められているのである」と述べている。

そして、様々な民主主義制度が併用されることは無意識民主主義の観点から見ても、入力としてのデータのバラエティを増やせるというメリットがある。無意識民主主義のデータアルゴリズムはアンサンブル学習という方法で民意を汲み取る。これは、様々なアルゴリズムを用いて民意を導き出し、最終的にそれらから平均値を出すことで、よりバイアスの少ない結論を出す方法である。アルゴリズムは、様々な民意データごとに適用されるので、民意データがより多く、多様であるほうが緻密な無意識の民意を導き出せる。

複数の選択肢の中から、一つの政党や一人の候補者を選ぶ選挙や、賛成・反対だけを表明するレファレンダムよりも、より細かく民意を示せる投票制度や、アジェンダごとに投票できる制度のほうがデータとして有用だろう。それだけでなく、討論型世論調査のように情報提供や議論によって、どのように世論が変化するか調査することは、他にはないデータ分析を可能にする。こういった制度は、無意識民主主義のアルゴリズムが消化するデータを充実させることだけでなく、一般市民が意思決定に関わっている感、いわば納得感のようなものを醸成する力もある。データアルゴリズムという無味乾燥した印象を与えるものだけでなく、他者との繋がりや国家との繋がりを体感できる仕組みがあれば、心細く感じることはないだろう。私たちが感情を持つ人間である以上、社会に温かさを与える、とても重要な効果を持つ。

自律して合理的選択を行うことのできる市民を作り出す、教育的効果もある。市民一人一人が民主主義を深く理解し、アジェンダに関する知識を高めることは、さらなる民主主義の発展のための豊かな土壌となるのだ。

さらに、民主主義的制度は、併用することで民主主義のレジリエンスを高め、意思決定のためのより強大なダイナミズムを作り出すことにつながる。そして、民主主義的制度の併用は、足し算的なメリットをもたらすだけでなく、相乗効果を生み出すものでもある

その相乗効果として、無意識民主主義と熟議民主主義の親和性について、深く考えてみたい。熟議民主主義的制度がデータアルゴリズムを助けることは上述したが、逆にデータアルゴリズムが熟議民主主義的制度を発展させることが可能である。討論型世論調査などの取り組みでは、意見交換を活発にするため、議論の途中で投票などを行い、それらを参考点としてさらに議論を進めることがある。参加者は、必ずしも議論のテーマや議論自体に慣れ親しんでいるわけでないので、こういった議論の種となる情報は大きな役割を果たす。例えば、ある市民会議においては、参加者が様々な形容詞の一覧の中から、アジェンダの現状を最もよく表しているものを選び、それをワードクラウドとして参加者全体で共有したうえで、それを具体化させるワークを行った(Report of the Citizens' Assembly on Democracy in the UK P.68)。これは、データアルゴリズムによって洗練させることができるものだ。参加者は、他の参加者がどのような意見を持っているか、全体としてどのような志向性を持っているか知ることにより、自分の考えるアイデアを修正することに活用できる。

また、熟議民主主義的制度の弱点として、会議の前提によって排除が起こってしまうことがある。討論型世論調査や市民会議では、公的機関から委託される実行委員会が提供する情報と議論の場を設定するため、一定の意見や議論の前提が排除されることになる。例えば、気候変動対策について話し合う市民会議であれば、「2050年までに脱炭素を実現するために、どのような対策が必要か?」というようなテーマ設定をされることが多い。この場合、2050年までに脱炭素を実現する必要はない、2050年以前に脱炭素を実現するべきである、といった目的に関する意見を排除することになってしまう。気候変動などの国家間で目標設定がされているアジェンダであれば、そこへ対する批判はそこまで強くないだろうが、設定されるテーマによっては、実行委員会の恣意性や情報操作を疑う声が出てきても不思議ではない。この問題点は、会議の実質的な意義だけでなく、参加者以外から見た正当性も失う可能性がある。完全に科学的かつ合理的な政策決定は、昔から政策学の分野で幾度となく試みられてきたが、組織特性や官僚の行動原理などに阻まれてきた。会議のテーマ設定でも同じように、科学的かつ合理的な説明を行うことは非常に困難だろう。しかし、テーマ設定にアルゴリズムを用いれば、話は別かもしれない。

事前に無数の民意データから、会議で扱うアジェンダについての民意を汲み取る作業を行う。それにより、市民から無作為抽出で選ばれる参加者も納得がいくようなテーマ設定が可能かもしれない。また、少なくとも外部に対する正当性を説明することは容易になるだろう。著者である成田氏は、データアルゴリズムによるデータ分析を専門的に行っているため、アルゴリズムによる民主主義を構想することは必然だったかもしれない。そして、政策決定過程に熟議によって市民の声を反映させようとする熟議民主主義的制度が、データアルゴリズムと親和的であることもまた、必然なのかもしれない



ここまで、長々と民主主義という大きなテーマを扱ってきた。現在の民主主義に関する議論は、現状を幅広く踏まえたうえで、体系的に論じているものがあまりにも少ないように思う。一部の事実や自分の視点だけに注目してしまい、本来議論すべき論点を見落としてはいないだろうか。これは、自分に対する問いでもある。政治学、工学、環境哲学、政策学などの学際的な知識に触れたが、公共性のために何かを語ることには、自分が間違ったことを言うことで、誰かを傷つけてはいないかという不安がつきまとう。しかし、その不安を抱きつつも、私たちの望む将来を構想し、それを目指して現実を変えていく営みが必要だ。フィクションではあるものの、私たちは「万人に対する万人の闘争」を避け、幸福のうちに生きるためにこの社会は存在する。そのため、私たちは思考による「民主主義との闘争」を続けている。一人一人が持つ理想を実現するため、社会を構想していきたい。自分も、その社会構想の営みの一部となれるよう、学び、考え、話し合い、行動していきたい。



本の感じ

本著では、1章故障、2章逃走、3章闘争にて、著者独特の視点で民主主義の現状や、新たな思想・試みを整理したうえで、4章の「構想」にて、著者の提唱する無意識民主主義が説明がされている。

本のカバーデザインは、他の政治学系の本とは違い、近未来的な原色を使った派手なデザインだ。また、エピローグとして本全体の要約が載っており、読みやすさを大事にしていることがわかる。本の内容だけでなく、デザインからも既存の形式を無視して合理性を追求するような性格を感じた。

なお、他の本に比べ、中身の文の文字が大きく行間も広い。文章は、話し言葉のレベルで噛み砕いた表現を使い、チクチクした言葉を多用する。本の副題である、「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」のインパクトも強い。この辺りに、ホリエモンひろゆきっぽさを感じる。やはり、ネット有名人に向いているのだろう。本のデザインや構成が、出版社のアイデアであるなら、出版社からネット有名人だと思われているのかもしれない。

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