見出し画像

インテリアの民主化

一応インテリアのプロとして仕事をしているが、どうにも経験を積めば積むほどにインテリアの中心地から遠ざかっている気がしてならない。

インテリアは機能がすべてという人もいて、デザインから始まるという人もいる。機能を考えれば自ずとデザインも付いてくるという「用の美」という考え方もある。

私はそのすべてが正しいと思う。というよりも、インテリアの不正解なんてものは、そもそも無いと感じる。
理想とする部屋の機能があって、理想とするデザインがある。そのどこかで折り合いをつけてインテリア選びをする。

ただそれだけ、なのだと思う。

正直に告白すると、私のインテリアスキルは「カラーコーディネート」と「人体寸法の知識」だけでほぼ成り立っている。
この色とこの色は組み合わせとしてよくないですね、とか、4人で使うならこのテーブルは小さすぎますね。みたいな知識だ。

こういった知識は重要だと思うし、説得力がある理論武装だとも思っている。でも、インテリアのルールを守った部屋であればそれでいいのか、とも疑問に思うのだ。

私自身、インテリアの道に進みたくてインテリアデザインを学んだ。学生時代は級友たちとインテリア談議に熱くなり、好きなデザインの話で盛り上がった。友人たちと部屋を行き来し、やっと買えたデザイナーズ家具の話をした。

小賢しい理論武装はそこにはなく、気持ちと熱と好奇心だけで部屋を作り上げていた。そのときのほうが、インテリアの正解に近いところにいた、と今では思う。

インテリアを仕事にしたからそうなったのかもしれないし、年齢を重ねて考え方が変わったのかもしれない。

そんなことを考えていた時、ある本のことを思い出した。
それは「TOKYO GRAFFITI」という雑誌。若者向け、ストリートカルチャーの延長のような切り口でお部屋紹介スナップを良く載せていた雑誌だ。
私が好んで購入していたのは15-6年くらい前だが、今でもしっかりと存在している。

インテリアとも形容しにくいようなごちゃごちゃした部屋がたくさん載っていた。アニメおたくの部屋、極彩色の部屋、ジャングルのような部屋・・・。
ファッション雑誌のストリートスナップのように、たくさんの部屋が掲載されていた。
(今考えると、都築響一さんのTOKYO STYLEから着想を得たんだろうなと思う)

インテリアのセオリーを割と無視し、派手な色遣いとうず高く積まれたものであふれた部屋がたくさん紹介されていた。

少なくとも私がクライアントに進める部屋ではないし、一般的に見ても整っているとは言い難い部屋だと思う。
しかし、誰よりもインテリアを楽しんでいるのが伝わってくる部屋ばかりだった。
熱量がありすぎる。住人の嗜好を色濃く反映し、とてつもないパワーがある。これが本物の部屋だ、という衝撃を受けた。

私には彼らの部屋を超えるような部屋作りはできない。
クライアントが喜んでくれれば正解か、というのであれば正解なのかもしれない。でも、それは少し悲しいと感じる。

だからこそ、インテリアの専門家として声を大にして言いたい。

たまに来る他人のために部屋作りをする必要なんてないんです、自分の思うようにすればいいんですよ、と。
もし、好き勝手に部屋作りをしたことによって「機能的な部分」が損なわれてしまったら、そんな時こそ、私たちのような存在を頼ればいいんですよ、そんなサポートが私はしたいんです、と。

昔と違い、今はインテリアのセオリーなんてない。ダイニングを一式で揃えることも少なくなったし、ソファを置かない家だってある。テレビを観ない人もザラにいる。人の数だけ部屋が存在するべきだし、存在してほしいと思う。

本当の意味でインテリアの民主化がもっと進めばいいのにと最近考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?