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大学時代の味わい深い退屈、鴨池。

SFCと呼ばれるキャンパスは小さな森に囲まれている。私のお気に入りは、他の人もそうであったように、ガリバー池と呼ばれる湖と池の中間くらいの大きさの水たまり。そこにはカモがたくさん住んでいて、鴨池という愛称で呼ばれていた。だから、鴨池で時間を過ごすことを「カモる」という風に言った。芝生にゴロンと寝転がったり、本を読んだり。食事をとったり、歌を歌ったり。課題をやるためにパソコンを広げたり、相撲をとっている人もいる。自由な空間である鴨池に足を向ければ、知り合いに会うことも少なくなかった。だから、「カモる」は豊かな色彩が点在するパレッドのような動詞だ。

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学部時代、ここにお世話になった。よく授業をサボったりして、ここにきていた。たくさんカモった。授業に飽きたり、天気が良かったりしたら、教室を出る。そう、鴨池に向かう。眠気に勝てないときは、木陰にからだを近づけて、そこでいくつかの変わった夢を見た。知り合いに会うことも少なくないので、近況方向や、頭の中で渦を巻いている考えを共有した。売店で手に入れたご飯を味わったり、図書館で本を借りて読んだりした。授業サボるといっても、頭の中には授業のことがちょっとだけある。だから、突然ひらめいたりする。もしくは、授業での考え事をひとりで深めるために、この場所にもきた。息抜きをすると、新鮮な空気がたくさん肺に入ってくるのがわかる。

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初夏は気持ちいいから人がたくさんいる。秋を越えると冷え込むからか、人もどんどん少なくなる。秋冬は落ち葉がそこら中にあって、昼寝をした後には背中にたくさんの色がくっついている。年に2回、鴨池の向こう側に花火があがるのだが、それを見るためにまたキャンパスを訪れたい。ある時、鴨池に向かう途中に友人と会った。知り合いを紹介されてみじかい立ち話をした。その人は、これは!と思える画期的な自由の定義を考えついて、それを紙に記した。そして、それを無くしてしまった、という話をしてくれた。その人は、やっと自由とは何かを掴んで、その言葉を大切にしたかったんだろう。ぼくには流れがとても愉快で、だからこそ紙は手元を離れるべきだと思った。一生その紙が、彼女の手のひらに戻ることなく、世界の至る所をさまよい続けて欲しい。

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何回さぼったかわからないけど、書きたいことは水のように溢れて来る。冷たくなってきた秋の風に触れて、退屈だった昔が懐かしくなった。心が満ち足りてばかりいる時間ではなかったけど、水の浮き沈みを感じさせてくれる場所だった。上善如水。退屈も、自由も。この体も、思い出も。その意味づけすらも刻一刻と形を変わっていくけれど、味わい深いことを導いてくれた退屈さだった。

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。